第40話
「言えなかったけどな、俺は心の底からお前らのことが哀れに思ってんだ! 俺たちは同胞じゃないか!!」
尻もちをついた兵士を囲むように四人は立っていた。アインはエルヴィアに拳銃を渡す。鉄の塊を握った瞬間、体が震えだす。エルヴィアには何だか何だか分からなかった。突然、アインが血まみれで部屋に入ってきて「逃げようと」と言ってきたのだ。
「大丈夫落ち着いて。けどやらなければ君は死ぬ。ここから先はぼくらだって保証はできない」
エルヴィアが震える手で銃口を突きつける。アインはその手の上に優しく手のひらを重ねた。黒緑色の制服を着たドイツ兵は周囲を伺い始める。ドイツ兵は決死の覚悟で横に飛んだ。手放していたライフルを掴む。撃鉄が降ろされる。男の頭蓋に穴が空いた。制御を失った体は地面に転がる。エルヴィアは涙を流しながら銃の反動で尻もちをついた。
「スイスに行こう。戦争はじきに終わる。ぼくらの敗戦でね」
アインは言った。
暗闇の森を歩く三人にエルヴィアは懸命についていった。子供の頃には耐えられそうになかった山道も今はなんともなかった。広葉樹の葉が降り積もった湿った地面が凹む。エルヴィアは先頭に立って歩くアインを見る。目からは一切赤い光が溢れていない。自分の目を覆いたくなった。アイン達に教えてもらった眼球の発光を抑える方法はまだ上手くできていない。
「止まって」
アインが静かに言う。エルヴィアはその場で立ち止まる。アインは歩いていた兵士から奪い取り手に入れたライフルを構え。銃身の横についたスコープを覗いた。
「兵士だ……三人」
「殺そう。どうせ残党だがあとあと発砲されると位置がばれる」
ツヴァイが言う。
「あたしはアインの指示に従う」
エルヴィアは何も言わなかった。アインは銃を背負い直しため息を吐く。
「殺ろう」
アインは震える声で言った。
エルヴィアは木の幹を飛び移る。山を下っていた兵士の集団の頭上に辿り着く。周囲にぼんやりと6つの眼球が赤く光った。
「フィアは失敗したらカバーを、ツヴァイとドライは喉を狙って」
「了解」
ツヴァイとドライが同時に言う。エルヴィアは緊張で体が震える。アインが頷いた瞬間。三人の吸血鬼が木の上から飛び降りた。衝撃で枯れ葉が舞い上がる。アインは一気に接近。兵士が認識する前に喉を腕で貫いた。胴体に足をかけて腕を引き抜く。
「もう大丈夫、敵はいないさ」
エルヴィアは恐る恐る飛び降りる。どうもこの現実が納得できなかった。冷たい土のベッドの上で、血だらけの濁った目の三人の兵士が死んでなお非難がましく見ている。兵士の顔は恐怖に歪んでいた。
「お前もじきに分かるフィア。これ意外に俺たちに生き残る選択肢がないことが……な」
ツヴァイは悲しげに言った。エルヴィアがアイン達と別れたのはそれから一ヶ月後だった。
「いらっしゃいませー」
二人同時にコンビニに入ってきた客に挨拶する。
「本日は無駄に客が多いわね」
鈴木早紀は心底面倒くさそうにため息をついた。くりっとした可愛らしい瞳と男まさりした性格は客受けが良かった。
「めぐみちゃん……聞いてよ」
エルヴィアは染めた黒髪と無理のない範囲で改変した顔を早紀に向ける。人造吸血鬼の再生能力は人の世で生きていく上でこの上なく有用だった。
「夫がずっと変なことばっかり言うのよ。大明神様に怒られるぞとかー? おかしいと思わない?」
早紀の話はいつも脈絡がない。しだいに日本人はそういうものなのかなとエルヴィアが思ってしまうほどだ。
「なにかの宗教?」
エルヴィアは話を推測して言う。早紀は尚更深いため息をつく。
「あ、いらっしゃいませー。ありがとうございましたー。……そうそうそんな感じ、どんな宗教なのって聞いても? 『信者でないお前に教えられるはずがない』って言うのよ性格も悪くなって……もうどうしようって感じなの?」
「はー、それでどうしたの?」
「めぐみちゃん……こないだ強盗を華麗に捕まえてたでしょ。夫を一回拘束してくれない。ちょっとガツンと言いたいのよ」
「そんなことは警察に連絡すればいいのに」
「もうとっくにした。何も言ってこない。ねぇいいでしょ?」
面倒くさいなとエルヴィアは思いながらも、ずっと一緒に仕事をしてきた恩もあるため了承した。
「ただいまー」
「ただいま……」
エルヴィアも早紀の声につられて挨拶をする。時刻は夜七時。鍵は空いているにも関わらず部屋は静まり返っていた。
「お母さん助けて! お父さんがお父さんが!!」
「どうしたの! 舞波!?」
青色のドレスを着た可愛らしい黒髪の少女が母である早紀にしがみつく。
「お父さんお父さんが……」
「なーに、さっきからどうして逃げるんだいまーいーはー」
青ざめた顔、全身の筋肉が痙攣。ぎょろりと動いた眼球は赤く光っている。
「ちょっと貴方……お酒の飲み過ぎじゃない!?」
早紀は舞波を後ろに下げながら震える声で後ずさりを始める。エルヴィアはその親子を見て前に踏みでた。目を閉じてみると若干だがチリチリとした痛みを感じる。
「……はぁはぁ、なんだその赤目は……」
エルヴィアの赤い眼球を見ると早紀の夫は興奮したように息を荒げる。
「うおおおおおおお!」
狂乱しながら男はエルヴィアに飛びかかる。男はポケットから注射器を突然取り出す。エルヴィアは横に飛んで回避。右拳で男の腹を殴打した。男は丸まってうめき声を上げる。
「赤目は悪魔! 赤目は悪魔! 赤目は悪魔!!」
倒れていた男が爆発的な筋力で一瞬で立ち上がる。エルヴィアの反応が遅れた。突きつけられた注射針をそのまま右手で掴む。皮膚を貫通して針は突き刺さった。
「やったぁ……やったぞー、悪魔が倒れぷげぇ」
言い終わる前に男の頭に人間の腕が突き刺さっていた。顔面を貫通。エルヴィアは腕を勢いよく引き抜いた。
「あ……ああああ……あぁ!!」
早紀はあまりの凄惨な光景に叫びながら尻もちをつく。舞波は何が何だが飲み込めずにポカーンとした顔で立っている。エルヴィアは獣の如く倒れた男を貪り喰らっていた。腕を引きちぎってひょいと口に放り込む。ボリボリと骨ごと噛み砕く。割れた注射器からは真っ赤な液体が流れて出ていた。全身余すところなくエルヴィアは自分の胃袋に人間を放り込み終えた。ギラリと光った眼球を早紀に向けた。
母親の腕に抱かれたまま舞波はじっと縮こまっていた。グチャリとした音が鳴って舞波は頭から血をかぶった。母の頭は壁にめり込んでいた。頭だけになった母が舞波を安心させるように微笑みかける。幼い舞波はただ黙っていた。
「ああああああ!!」
エルヴィアの口から苦悶の声が漏れる。空気が燃え盛るような怨嗟の声。エルヴィアはフラフラと頭を抑えながら部屋から出ていく。
アパートの外に出て新鮮な空気を吸うと。精神が少しだけましになる。けど体は異常なままで口の中に大量に含んだ血液を飲み込んでは舐め回す。舐めないとすぐに乾いてい食べたくなる。後ろにいる獲物から逃げるためにエルヴィアは三階から飛び降りた。僅かな衝撃で大地に立つ。
「逃げなきゃ! 逃げなきゃ! 逃げなきゃ!!」
エルヴィアはガチガチと震える歯を押さえつけて走った。
エルヴィアは自分の体調が少しマシになってきたことに気づく。けれど心は先程自分で作り出した血みどろの家に戻ろうと訴えかけてくる。罪悪感を感じながらもごくりとつばを飲み込む。考えれば考えるほど乾いてきた。カラカラの口の中を舌で舐める。
「お兄ちゃんは何時帰ってくるの?」
エルヴィアの強化された視界の遠方で茶髪の少女が母親に話しかけていた。
「うーん、もうちょっとしたら帰ってくるわよ。ほら今日は結仁の特別な日じゃない。ちょっと友達に協力してもらって引き止めてもらってるのよ」
「私……早くお兄ちゃんに会いたい」
母は少女のわがままをなだめるように少女の頭を撫でた。愛されているなと遠目から見ていたエルヴィアは思った。どうしようもなく思った。足が一歩ずつ二人の人間が入ったアパートの三階に向かう。階段を飛び越す。駆け上がり追跡。硬い扉を蹴り砕いた。
家の中にいた三人とも呆然と突然吹っ飛んだ扉に驚く。エルヴィアはぎこちなく首を曲げ鋭い牙を覗かせながら三人を見る。真っ黒な瞳に輝かしい金の髪。夜に輝く満月のような少女は。
「アハハ」
心底、楽しげに三日月型に口を曲げて笑顔を浮かべた。乾いた唇を真っ赤な舌で舐めた。
人間では反応できない爆発のような速度で接近。鬼気迫る表情で包丁を取ろうとしていた男の頭部を真っ先に回し蹴りで吹き飛ばした。胴体から鮮血の噴水が出る。エルヴィアはそれを浴びると心が満たされた。
「い、いやああああああああ!!」
女は金切り声をあげて倒れ込む。顔面が真っ青だ。大切なものを奪ってやったと考えるとエルヴィアは愉快な気分になった。もたれかかってきた男の体を無視。エルヴィアは女に近づく。息を荒くして口から血を垂らしながら一歩ずつ。母は震えた体で娘をかばった。エルヴィアは信じられない光景に立ち止まる。同時に急激に怒りが湧いてきた。握った手のひらに爪が食い込み肉が抉れる。
嫉妬のままに母親の服の襟を掴むと怪力で引き剥がした。懇願する母親の声を無視。状況が理解できていない娘を見る。茶髪の可愛らしい小さな女の子だ。青いドレスを着ている。エルヴィアは自分と少女を客観的に比較して虚しさを感じた。
「奪ってやる……奪いさってやる!!」
エルヴィアは目を見開いて少女の暗いブラウンの瞳を凝視する。怒りのままに自分の頬を削るように掻く。すぐに再生が始まって傷がふさがる。また掻いて傷ができる。ふさがる。女の子はわんわんと泣き叫び始めた。エルヴィアの細腕が女の子の胴体を貫通した。
結仁は疲労しながら階段を上がる。小さな体では階段を登るのにも一苦労だ。早く大きくなりたいなあと結仁は思った。自分の家の扉を叩くが返事がない。散々友人に止められていたので、何が起こるのかだいたい予想できていた。今日は結仁の誕生日だ。扉をゆっくりと開けた。
ぞっとするほど艶かしい鎖骨。飲み込まれそうなほどの白。どんな聖職者だって狂わせる文字通り血のリップを塗った唇。壊れたように笑う口に頬をつたい落ちてきた涙が伝った。所々血がこびりついた腰まで伸びた黄金の髪はそれでもなお美しい。機械で幾重にもプログラムされ改善されたか如き美貌がエルヴィアを構成している。高くスラリと伸びた鼻筋、痛々しいほどに暗闇に鈍く光る赤い大きな眼球。ぎょろりと結仁の方を覗き込んだ。
結仁は声が出なかった。逃げろ! 頭の中が叫んでいる。座り込んだエルヴィアの右隣。食器棚に結仁の母の頭部だけが突っ込んでいる。胴体は見当たらない。反対に首のない父は包丁を持ったままエルヴィアの前でうつ伏せに倒れている。心臓の部分には大きな空洞が空いていた。どろりどろりと赤い体液が部屋を侵食。エルヴィアの真下には紫乃のグズグズとした腹が白色の骨を晒していた。
エルヴィアは結仁から目を離して下にいる結仁の妹の血を啜る、啜りながら泣く。大粒の涙と嗚咽が溢れる。結仁は黒色のランドセルを下ろそうとしたまま静止した。異常事態に対し、体は理解を拒んだ。現実をフェードアウトさせ始める。
急激な爆発。窓ガラスが砕け散る。少女を食べるのに夢中になっていたエルヴィアを無数の破片が突き刺した。エルヴィアは爆風に吹き飛ばされ転倒。結仁の頭の上から天井が落ちてきていた。時を止めている暇などないと言わんばかりに結仁の脳は命令を下す。血流が加速、意識が引き戻される。生存本能に突き動かされ一歩足を踏み出したまま結仁は固まった。
生きる理由がない。原始的な本能は子供らしからぬ理性に焼却され途絶えた。
「逃げて!!」
瓦礫に押し潰される瞬間、エルヴィアの声が聞こえた。
ひゅーひゅーとなる音を結仁は聞いていた。体の下半分が瓦礫に押しつぶされて動けない。上半身はランドセルのおかげで潰れてはいない。懸命に息を吸えば吸うほど蔓延した死のガスが体を蝕む。人を殺すには毒ガスである必要もない。頭痛、強烈なめまい。視界は明滅し断裂し始める。肺が燃えるような粘りとした熱さ。後数分で死んでいく結仁にはそれが心地よかった。
倒れた食器棚を突き破って無数の鮮血色が出現する。樹枝のように生えてきた結晶は何度も何度も下側から棚を突き刺す。エルヴィアは見た目からは想像し得ない膂力で背中に棚を背負って膝をついて立ち上がる。そのまま棚を横に投げ飛ばした、破砕音が轟く。涙の滲んだ眼球は結仁とは異なり生命の赤を未だ燃やしている。放り投げられた棚についた結晶は一瞬で元の血液に戻った。
その姿を見て閉じかけていた結仁の瞼が開く。殺せ! 聞こえるはずのない声が聞こえる。存在しない冷たい手のひらが頭を撫ぜる感覚を覚える。慈しむように、哀れな子供を慰めるように。結仁の中に生まれた毒は急激に膨張して肉体を蝕み始める。体の内側に棲む怨念と裏腹に倒れた瓦礫で固定された結仁の現実は動かなかった。ゆっくり、ゆっくり、結仁の憎悪は生命の火とともに消えていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
結仁の濁った瞳を見ながらエルヴィアは懇願するように謝る。言葉のたびに結仁の胸が傷んだ。
何を言ってるんだ! お前がやったんだろ! お前が……。
謝罪を聞けば聞くほど憎悪が再び湧き上がってくるのを感じた。けどやっぱり体は動かない。背中が少しだけ軽くなった。結仁が上を見上げるとエルヴィアは天井から崩れ落ちた巨大な壊れた板を床に放り投げていた。
「生きて、生きてよ! お願いだから! お願い……」
背負っていたものがなくなっても結仁の体は動かなかった。エルヴィアは幼子をあやすように結仁の体を抱きしめて背中を優しく叩いた。
「絶対。絶対に助けるから。君を助けるから、君を守るから……だから死なないで、生きて」
「生きてお兄ちゃん」
結仁はどこかから死んだはずの妹の声が妹を殺した張本人の声と重なった気がした。エルヴィアの体についていた血が抱きしめたせいで結仁の体に付く。エルヴィアはゆっくりと抱えたものを壊さないように立ち上がると、機能などもはや果たしていない扉と瓦礫の山を片足で蹴りつける。二度、三度蹴りつけると勢いよく穴が空いて吹き飛んだ。
外に出た瞬間、結仁の濁っていた思考が流れ込んでくる新鮮な空気で生き返る。視界が驚くほどクリアになった。ガンガンと鳴り響く頭痛。感覚が麻痺し、絶望で死を受け入れていた先程までと違い、物理的な地獄が結仁を襲い始める。エルヴィアは結仁をゆっくりと大地に横たえる。立ち去ろうとしたエルヴィアの裾を結仁は引いていた。エルヴィアはそれを見て目から溢れていた細く白い指で涙を拭うと、殺人鬼とは程遠い母親のような情を込めた瞳で見る。
「大丈夫、どこにも言ったりしない。約束する。寿命が途切れるその時まで君を守るから」
「だから少しだけ休んでいて」女の言葉を受けて結仁は催眠にも似た強烈な安心感を覚える。ゆっくりと安らかな眠りに沈んでいく中で、結仁はエルヴィアが未だに燃えている家に入った行くのを見ていた。
「いってらっしゃい」
掠れた声が結仁の口から出た。不思議なことに言うべきだと感じた。エルヴィアは嗚咽を飲み込む。
「行ってきます。ちゃんと戻ってくるから良い子で待っててね」
いい慣れていないのか、少しだけ照れくさそうに言った。
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