第43話
楓は雨に濡れながら都市を走る。周りのすべてが敵に見える。背負っていたリュックを抱きかかえ、がむしゃらに走る。滑ってコケた。
「ああ……もう」
楓は擦りむいた肘を見て言う。なんとか震える両腕に力を込めて立ち上がる。何も知らない周りからの心配したような、憐れむような視線がただ不快だった。周囲を確認したあとコンビニの屋根の下に入る。大きく息を吸って吐く。心臓急に運動したせいでバクバクと鼓動している。楓は「齋藤結仁」と表示されたスマホを見ていたがすぐにポケットにしまった。
「でるわけないか……」
楓は大きくため息をつく。いっそのこと学を頼ってしまっても良いかもしれない。学は信用できる。楓は決心して着信履歴から学に電話をかけた。軽快な音楽が隣から鳴り響いた。楓はぎょっとして横を見る。ずぶ濡れの学がコンビニの傘立ての前に座っていた。
「あんた……何してんの!!」
「ナイスタイミングだろ」
学は濡れた髪を振って水を飛ばす。張り付いた髪を鬱陶しそうに散らした。楓は冷静さを取り戻し後退りする。
「まぁ……うん。疑わしいとは思うが信頼してくれ」
「好きな女性のタイプは?」
「妹! ああー、おれも紫乃ちゃんみたいな妹がいたら良かったのに!!」
「あんたそれ今の結仁に言ってら殺されるわよ」
「そんときは、拳で語り合うさ」
学は拳を前に突き出して言う。楓は呆れてため息をついた。
「で、何であんたがここに居るの?」
楓が目を細めて言う。
「なんか怪しいと思ってんたんだよ。お前のこと」
「……」
「気だるげでやる気ないくせにいつも眠そうだし。お前も……そのー、ベルゼとかいう奴の関係か。結仁もそうだけどお前ら貧乏くじ引きすぎだろ」
学は苦笑い。楓はリュックを強く抱きかかえる。
「何が目的なの?」
「そんなの、お前らを手助けするために決まってるだろ?」
「はっ? あんた自分が何言ってるのか分かってるの!」
「分かってる分かってる。ベルゼの奴らに追いかけられたもんなお前。あいつら前見た奴みたいに化物じゃなかったから気絶させた」
楓は愕然と学を見る。
「知ってるよ! お前らが普通じゃないことも。……けどさ関係ねぇよ。おれはな、そいつのために命を張れないような奴を友達とは呼ばない」
「あんた友達少なそうね」
「うるせぇ!」
楓が楽しそうに笑ってるのを見ると学は少し照れくさかった。
結仁は紫乃の部屋でずっとうずくまっていた。自分で引き裂いた紫乃のシーツを被ると少しだけ安心した。観葉植物やタンスは強盗に荒らされたように地面に散らばっている。どうしようもない絶望感と憎悪が結仁を侵食した。それを外に漏らさないためにここを壊して紫乃との思い出を、彼女の存在をなかったことにするのが一番楽だった。結仁はいつも右手の薬指についている指輪を抜いて右手で握りしめた。
「紫乃が……エルヴィアがぼくの家族を殺したんだ」
「ぼくは憶えてるぼくは憶えてるぼくは憶えてる。思い出したんだ……アイツはぼくの目の前で紫乃、紫乃を食べてた。化物なんだ。……化物なんだよ!!」
結仁は被っていた破ったシーツを苛立たしく地面に叩きつける。突然。チャイムが鳴る。
「いやだいやだいやだいやだ!!」
恐怖に取り憑かれて結仁はブツブツと呟き始める。チャイムはそれでも鳴り続ける。
「寝よう。寝たら全部忘れて……それで紫乃が帰ってくるんだ。そしてぼくの料理を作ってくれる。本物の紫乃が」
結仁はゆっくりと瞼を閉じた。
「お兄ちゃん何してるの?」
公園でせっせと砂の城を作っていた紫乃が結仁に言う。結仁は懐かしい気分になって紫乃を見る。くりっとした黒い瞳、淡い茶髪。違いなんていくらでもあったはずだ。
「もー、なんか答えてよ!!」
紫乃は結仁が無視していると思って頬を引っ張る。
「痛い痛い、聞こえてるよ」
結仁は声を高くして言う。紫乃はぶすっとする。
「お兄ちゃん見てみなさい。この立派なお城を」
結仁が見ると、砂場が少し盛り上がっていた。城の影も形もできていない。そう言えば紫乃はどんくさかったなと結仁は思った。エルヴィアとは見た目は似ていても性格が似ていない。ワガママで子供っぽい。もし大人になっていたらどうなっていたのだろうか。
「いいと思うよ」
結仁は空を見上げて言う。
「お兄ちゃん……何で泣いてるの?」
「えッ!」
結仁は自分の瞼をこすった。手のひらに湿った感触。
「あはは……何でだろう。紫乃の泣き虫が移っちゃったかも」
「紫乃は泣き虫じゃないもん」
言いながら紫乃は結仁を抱きしめた。小さなぬくもりが体を包む。
「お兄ちゃんが私が泣いてる時……いつもやってくれるからやってみた。お兄ちゃんだけだからね。こんなことするの!」
顔を真赤にして紫乃は言う。世界が暗くなっていく。結仁は立ち上がる。
「……どうしたのお兄ちゃん?」
「何でもない」
紫乃の輪郭がぼやける。偽りの幸福は長続きしない。結仁は泣きそうになりながらも兄として夢が覚めるまで虚勢を張り続けた。
ガラスが割れる音が聞こえた。結仁がぎょっとして見ると学が金属バットを持って割れた紫乃の部屋のガラス窓から入ってきた。学は自分で散らかしたガラス片を見てうげぇーと顔をしかめる。後ろから楓が恐る恐る窓枠をくぐっってきた。
「あんた……もうちょっと上手く割れないの近所迷惑でしょうが!?」
「ああーうるせうるせ! 空き巣経験なんざないんだよ!!」
「チンピラのくせに役に立たないわね」
入ってくるなり口論をし始めた二人を結仁は捨てられた子供のような怯えた瞳で見つめる。「ひっ」という恐怖を押し殺したような声を出した。紫乃のシーツを拾って隠れる。
「こりゃー……重症だな」
学が呆れて両手を上げる。
「あんた……本当にデリカシーってものを憶えたほうがいいわよ」
楓は学に言う。丸まっている結仁の側に座った。
「帰れよ……」
結仁が震えた声で言う。結仁はシーツの中に包まっていると無限に得られるように感じた安心感が楓が喋れば喋るほどなくなっていく気がした。恐怖で歯が震える。
「帰らない! 学校に来なくなったあんたを見捨てたら私は友達じゃ居られなくなるのよ!!」
楓は叫ぶ。結仁はふつふつと怒りが湧いてくる。
「帰れよ! ぼくのことを思うなら帰ってくれ!!」
結仁は大声で鋭く叫ぶ。楓はそれでも一切ひるまない。
「……あんた、やっぱり本当に紫乃ちゃんが裏切ったとか思ってるわけ?」
結仁は楓の言葉が信じられず、シーツの間から彼女の姿を見る。楓は歯を食いしばって泣きそうな目になりながら結仁に目線を合わせていた。
「そうに決まってるだろ。……アイツはただの化物だったんだよ! 人間の振りしてぼくを騙して、笑ってたんだ。楽しんでたんだよ!!」
「ええ楽しんでたでしょうね。私もたまにメッセージをもらってたから分かるけど凄く楽しそうだったわ。貴方の世話するのが。きっとこの娘には勝てないなって会った時から思ったわ」
「嘲笑ってたんだよ。そうに……そうに決まってる」
結仁は自分の内側の憎悪に突き動かされるままに言葉を紡ぐ。
「ぼくの両親や紫乃……紫乃を奪ってぼくが苦しむのを見て楽しんでたんだ!」
「……そうなの? それにしては随分と熱心に世話してくれたものね。朝起きるときも学校行くときも、帰るときも全部全部彼女と一緒だったけど。……どこの殺人鬼がそんな労力払うの?」
「うるさい……うるさいよ!!」
結仁は両耳を手でふさぐ。
「あんたは現実から必死に目をそらしてるだけ。何もできない自分がずっと憎いだけ!」
「お前にぼくの何が分かるんだよ! ただの他人だろ!!」
楓は不快そうに目を細める。
「だーかーら。前も言ったけど知らないわよあんたのことなんて。私が知ってるあんたはねくそどうでもいい話を笑顔でマジで議論してる馬鹿。大馬鹿。……そして妹思い。妹思いなんてものじゃないわね。シスコンよ、重度のシスターコンプレックスよ。あんた毎度毎度お姉さん系が好きとか言ってるけど……あれ絶対ウソでしょ。あんたは――」
結仁は先の言葉が聞きたくなくて楓に飛びかかって抑えこんだ。床に倒れた楓が痛そうに目を細めている。楓は結仁の濁った瞳を見つめた。
「あんたは好きだった人に裏切られたから怒ってるだけよ!」
結仁はカッとして腕を持ち上げた。腕は振り下ろされず静止。言われて初めて結仁は自身が持っている憎しみや憎悪が両親を殺された恨みとは別種のものであると気づく。浮かんでくるのはエルヴィアの顔ばかりだ。それもエルヴィアと過ごした十年間ばかり。本当の家族との日々以上に、結仁の日常は偽りの紫乃とともにあった。それを認識した瞬間、止めどなく涙が溢れてくるのを感じた。
「父さん……母さん、紫乃。紫乃! なんで、だろうぼく……」
結仁の右目から零れ落ちた涙が楓が頬に落ちた。
「なんであんな殺人鬼のことばっかり。そうだ。居たのは……居たのはずっと紫乃だ。あれが……ぼくの」
結仁は自分自身への怒りで顔を歪める。楓はゆっくりと手を伸ばして結仁の頬に触れた。
「十年ぐらい一緒に過ごして……家族じゃないなんて言わないであげなさい」
結仁は鼻をすすった。
「あんたらは私の憧れなのよ。ああー、私もあんたの家族だったらて思ったことも何度もあった。妄想してたときもあった。けどね。なんか見てると諦めが来るのよ。あなたたちずっと仲良さそうだから」
結仁は何も言わずに泣いた。
「で、お前は振った女の胸に顔埋めて慰めてもらうのか。羨ましいぜ」
「うるさい学!」
結仁はコアラのように楓にしがみつく。楓はニヤけた顔をしながら抱きしめた。
「……けどありがとう」
「どうも。ちょっとは助けになったかね。後でご近所さんへの説明をよろしく頼むよ」
学は苦笑いして言う。
「結仁」
満足そうに結仁の頭を撫でていた楓が結仁を呼ぶ。白衣の胸元から結仁の見たことがある自己注射薬を取り出した。
「それは……」
「人造吸血化薬。この成分で実験はされてないから確信は持てないけど……たぶん、いえきっと6割ぐらいで成功するわ」
「……不安だね」
「仕方ないでしょ。本当はもっと実験するべきなんだから」
楓は結仁の手に注射器を握らせた。
「あんたがやりたいこと、あんたが言いたいこと。全部言ってきなさい。本人が死ぬ前にね」
「ありがとう……」
結仁は楓の側から離れて立ち上がる。床に転がっていた銀の指輪を拾った。右手の薬指にもう一度つける。結仁は目の前に右手を広げて指輪を見た。銀色の指輪。家族との唯一の絆。
「ごめん、父さん、母さん、……そして紫乃。ぼくはぼくのために生きるよ」
結仁は右拳を強く、強く握りしめた。
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