第30話

 何事もなかったかのようにQUARKは人で賑わっていた。その床に三ヶ月前血が付いていたことも、肉片の塊が横たわっていたことも誰も知りはしない。結仁はあの時の赤い霧を思い出して息が詰まるような感覚がした。

 結仁はぶらぶらと服屋を見て回る。赤色のスカートを見て、そう言えば紫乃は赤が好きだったなと思った。女性ものスカートを男一人で見ていると周りからの視線が痛いので早々に立ち去った。

「そういえば夕食何も買ってない」

 結仁が財布を確認すると一万円札が一枚入っていた。夕食には足りそうだが、後で引き出すのも面倒だ。銀行に寄る。案内に従ってパネルを操作すると預金残高が100万円以上あった。そのほとんどは結仁が稼いだ記憶のないものだ。我が家のプライバシーはゆるいので紫乃が失踪する前にご丁寧に入れたのだろう。その数字に苦笑いし、一万円だけ引き出した。結仁はできる限り紫乃が入れたお金には頼らないことにしていた。頼ってしまえば紫乃が居なくなったことを認めたような気がしたからだ。

 結仁は亡霊のように紫乃との思い出を辿っていると、ぬいぐるみのコーナーに着ていた。結仁は唐突に虚しさに襲われる。事故が起こる前の状態に完全に戻っていた。きっと一年後や二年後にはこの喪失も忘れてしまうのだろうか。自分の想像が怖かった。

「帰ろう」

 現実から逃避するために歩いてきた道を引き返す。

「貴方はどちらが良いと思う?」

 紫乃に似た声が聞こえて結仁は振り返る。世界中の黄金の輝きを集めてなお到達できぬ宝石の如く光を反射する長い金の髪。いたずらっぽく細められた目。どこまでも暗い瞳。肌は眩しいほど白く、汚れなど一つもなく透き通っている。白い肌と対照的に赤い蠱惑的な唇は血が滴りそうなほど潤っている。

「えっと?」

 結仁は呆然としてた頭を左右に向ける。誰に話しかけているのか確認した。周りには誰も居ない。痛いほどの嫉妬の視線が目の前の女性に集まっている。

「貴方よ。そこの黒髪の貴方。どちらが似合うかしら?」

 女性は二つのぬいぐるみを掴んで見せてくる。うさぎと狐。結仁は一瞬だけ目の前の女性が紫乃に重なって見えた気がした。胸の奥が熱くなるような感覚がした。

「えーと、どうして泣いてるのかしら? 脅してるわけじゃないのよ」

 女性はオロオロと慌て始める。結仁はその表情が可笑しくって笑った。

「大丈夫。ちょっと、思い出しだけです。えーと、ぬいぐるみですか?」

「ええそうよ。どっちが私に似合うかしら。寂しがり屋のウサギさん、それともずる賢い狐?」

「その言い方だと狐は選ばれなさそうですね。……うさぎの方が似合ってますよ。白い妖精みたいな貴方には」

「あらありがとう。じゃあ、これにするわね」

 女性は心の底から嬉しそうにぎゅっとうさぎのぬいぐるみを抱きかかえた。突然、女性は結仁の耳元に口を寄せる。

「知ってるかしら、古代からうさぎは性の象徴なのよ。年中発情期なのだから納得ね。バニーガールもそれに基づいて産まれたよ。知ってた?」

 結仁はこそばゆい息と恥ずかしさで赤くなる。

「えーと、知りませんでした……すいません」

 結仁は恐る恐る謝罪する。

「冗談よ。というかそんなことでセクハラ扱いするなら話しかけていないわ。……ごめんなさい。そんなに怖がらないで」

 女性はすっと結仁から離れる。

「私はエルヴィア・バルギール。ポーランドから遊びに来てるの。貴方は?」

「齋藤結仁です」

 エルヴィアは柔らかに微笑んだ。

「もしよかったら私の友だちになってくれないかしら。一人で来たものだから色々と困ることがあるのよ」

「大丈夫ですけど」

 結仁は緊張したお持ちでスマホを出した。

「ふふ、ありがとう。また遊んでくれると嬉しいわ」

 連絡先を交換した後、少女のように爽やかな笑顔でエルヴィアはレジに向かう。結仁は少しだけがっかりしたような気がした。紫乃だと思ったんだけど……けど不思議な人だ。結仁はそう思った。




 月がぼーと浮かぶ空を見ながらエルヴィアは夜を見ていた。夜風が金糸のような髪をたなびかせる。長いまつげのついた瞼を閉じれば体の内側に熱を感じる。真紅に染まった目をかっと見開き。地面を蹴って飛んだ。

 

 男は全速力で走る。携帯を出して本部に伝える暇などない。自らの生にしがみつくためにみっともなく転けそうになりながら角を曲がった。男は自分の右腕が軽くなったことに気づく。

「こんばんは、私の敵」

 鮮血のように赤い眼球で美しい獣は敵を見る。夜に輝くは金の華。血に濡れてもなお凍りつくほど美しい。女は細く白い少女の腕で男の右腕だったものを握りつぶした。腕は絞り上げられて血液を地面に撒き散らす。

「うおおおおお!」

 男は雄叫びをあげながら左手で自己注射器を胸を突き刺した。猛烈な痛みに耐える。カッと目を見開く。尋常ならざる筋力で少女から逃げる。男の視界はいつの間にか地面に向いていた。キスをするほど頭を強く地面に押さえつけられている。

「そんな贋作無意味よ。貴方達の巣はどこにあるのかしら? 私ずっと怒ってるのよ。十年前からずーーと。どうして私が苦しまなくちゃいけないのかって。ねぇ、どうして? どうしてなの?」

 エルヴィアは男の眼球を無理やり自分の目に合わせる。男はブルブルと震え始めた。

「貴方みたいな出来損ないの吸血鬼でも喋る能力ぐらい備わってるんでしょ。ねぇ、どうしてなの? どうして、どうしてなの? ……もういいわ」

 エルヴィアは押さえつけていた力を緩める。男はエルヴィアの腕を払って急いで立ち上がった。止まった。頭がなかった。首から下だけが直立している。エルヴィアの右手には髪が握られその先端に頭がついている。

「私は躊躇わない……私の願いを……約束を叶えるためだったら何も躊躇わない」

 エルヴィアの頬に小さな涙の粒が光った。


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