第10話
高度先端大学――県外からも多数の受験生が訪れる有名私立大学――の敷地内で楓はため息をついた。ベージュのヘアバンドで巻かれた一房の髪を不機嫌そうにいじる。楓が白衣を着て学内を歩いていても周りは注目しない。屋外の椅子に集団で座って喋り合っている。仲睦まじそうな二人の男女の組みもあった。楓はそれらを一瞥して憂鬱な気分になりながらも「医学棟」に入った。
長ったらしい階段を登ると「天雨研究室」と書かれた灰色の扉を開ける。
「お母さん」
母――天雨梓――は娘の声に気づいて肩をピクリと動かすが視線は向けない。白衣を着た長い黒髪の女性だ。楓の眉目秀麗さは彼女の遺伝なのだろう。目を細め梓はじっと赤色の溶液が入った試験管を見つめていた。
「楓……何のよう?」
母と娘の関係は世間一般のものから大きく異なる。梓とイギリス人の父親との間に生まれた楓は英才教育を受けさせられ中学校の頃から彼女の助手をやっている。そのせいなのか、母と娘の間には明確な上下関係が存在し愛情とは無縁だった。
「ベルゼが……新しい被験体を確保したらから研究を進めろって」
梓はその言葉で始めて楓の方を向く。
「……それは素晴らしい報告ね。何体?」
「三人。一家族だって」
「遺伝情報が似ているのは不都合ね。相変わらず彼らの仕事には文句しかないわ。実験体を確保するのがこのご時世じゃ難しいってことは理解してる。けれどそれをやるのが仕事じゃないのかしら……」
梓は再び赤い溶液の入った試験管を見ると、一滴スポイトで白い液体を垂らした。沈み込んだ白は湯気のような模様になる。一瞬で食いつぶされ紅に染まった。
「駄目ね。……報告ありがとう楓。貴方も暇があったら実験してみなさい。きっと素晴らしい体験になるわ」
梓は机についてある黒い引き出しの鍵を開けて二枚の資料を取り出し楓に差し出す。
「研究手法と現状の問題点よ。今は死亡率の減少と空気への抵抗の上昇に成功しているのだけど、投与された人間が意識を失ったり、そもそも筋力が強くなったりもしないという問題が時たま起こるわ。私が投与した限りでは誰一人まともな吸血鬼にはなっていない。ドイツ軍の進化計画なんて本当にあったのか疑わしくなるほどよ」
楓は渡された紙を無表情で見る。
「被験体の一割を貴方の好きに使っていいわ。研究は一人でやってると思わぬところに躓くものなの」
「分かった」
楓は話が終わったとばかりにズカズカと出口に向かう。
「あと、ベルゼが隠教の人と協力するからこれからサンプルが増えるって」
「期待せずに待っとくわ」
背中を向けたままの梓を楓は睨みつけていた。そこら辺にある椅子で頭をかち割ったらどれだけ清々するだろうかと何度か思案したことがあった。それでもわずかにある母親への憧れと愛情が楓の手を白衣のポケットに戻した。
「最悪」
誰にも聞こえぬように楓は嘯いた。
「ありがとございやしたー」
野太い男の声を聞きながら学はお気に入りのラーメン屋を出た。最近はぶらぶらとあてもなく彷徨うことが学のマイブームだった。がさつだった中学校の頃から素行を改め勉学に根を詰め識恵学園に入学したまでは良かった。だが周りの学生と違って大学に行くほど勉強する意欲もない。一種の燃え尽き症候群にかかっていた。
「学の兄貴!」
過去を思い出す嫌な呼び方をされて学は反射的に拳を握って振り向いた。スキンヘッドの背の低い中学生の男が立っていた。
「……知らね」
学は「松本」という名前が頭の中に浮かんだが無視して歩いた。松本は「待ってくださいよ」と言いながら隣に寄り添う。
「また隠教の奴らの動きが活発になってます」
松本は小さく隣にしか聞こえない声で伝える。
「なんだっけそれ?」
「冗談言わないで下さい! たちの悪い宗教組織ですよ。俺たち正王団の敵じゃないですか!!」
松本のあまりの必死さに学は路地裏に入り足を止める。薄暗い通路に蝿の羽音が残響していた。
「俺は正王団なんて臭い名前の組織にもう入ってねーよ。あんなん中学校の頃だけで十分だ。松本、お前も高校入ったらやめるんだな」
「……本当に何もしないんすか!?」
松本は不満そうな目を学に向ける。
「殴っても何も解決しねぇよ。それが俺が中学で学んだことだ」
「兄貴はちゃんと戦ってました! 隠教の奴ら昔からこの街に居て、明らかにやばい奴らなのに警官は動かねぇ。そんな時に戦ってたのは正王団じゃないですか! 俺たちの団は絶対に人を助けてました。感謝だってされたじゃねぇですか!!」
「けど解決できてねぇよ! 全然、まったくもって、何も変わってない。隠教の奴らは正王団がなくなりゃもっと活発に動く、押さえつけたら隠れる。その繰り返しじゃねぇか。意味ねぇだろ!!」
学は息を荒げて声を張り上げる。
「兄貴……」
「俺はもうやめたんだ。他の奴らにもそう言っといてくれ」
学は歯を強く噛みながら言った。
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