丹波玲美亜 3


「今日も残業なのね」

「ご、ごめん。でも代わりに休日は頑張るよ」


 夫はいつも夜遅くに帰宅した。

 それもそのはず。長い不況と停滞で行き詰まる現代、「自分の給料では家族を養えない」と結婚を諦める人がいるくらいなのだ。子供を育てるとなれば相応の資金が必要になる。退職した玲美亜の分も働いて、生まれたばかりの娘のために稼がねばならない。

 日付が変わる頃に帰宅して、食事と入浴が済んだら就寝。疲れが癒やされる間もなくすぐ出社。家は帰って寝るだけの場所だった。

 それでも、たまにある休日は娘につきっきりで遊んでくれた。控えめに言っても溺愛していただろう。イクメン、とまではいかなくとも、良い父親と呼べる夫だった。

 しかし、玲美亜が気に入らなかったのはそこである。


「私だけのものだったのに……」


 初めて自分を愛してくれた人。

 自分が一身に浴びていたはずの愛を娘に奪われてしまった。

 夫の矢印は全て娘だけに向けられている。玲美亜は眼中にないのだ。

 ねたみそねみ。

 可愛さ余って憎さ百倍。

 娘が自分に似ているのも余計に忌々しかった。

 産まれてきた時から違和感があったのだ。自分の体の一部だったくせに、生を受けた瞬間から夫の興味関心を奪い去った泥棒猫。

 娘が成長するほどに母性は抜け落ちていく。何故自身に仇なす所有物に無償の愛を注がねばならないのだ。元より足りなかった優しさはあっという間に底を突いた。

 

「あ、あなたが悪いのよ……!」


 最初はちょっとした仕返しのつもりだった。

 所構わず泣き喚き、食事をよこせとねだったり、汚れたオムツを替えろと要求したり。迷惑をかけて苛々いらいらさせる度、ちょっと叩いてみた、つねってみた。余計に泣いた。うるさい。でも怒りを暴力で発散すると心がすっきりする。

 ちゃぶ台を支えに掴まり立ちしようとしたので押し倒した。

 両手を前によちよち歩き出したので足を引っ掛けて転ばせた。

 部屋の中を走るようになったので「近所迷惑だ」と思い切り蹴飛ばした。

 暴力を振るうほど、娘の体の至る所にあざが出来てしまった。だが夫には「お転婆てんばさんで暴れ回るから怪我けがをしがち」と誤魔化ごまかしておいた。鈍臭かったので簡単に信じてくれた。

 が、もちろん、そんなことをして娘に好かれるはずもなく。


「パパだーいすきっ!」

「そうかそうか、パパはとっても嬉しいぞ~」

「でも、ママきらーい」

「どうして嫌いなんだい?」

「だってこわいんだもん」


 なんて父子のやり取りもあったくらいだ。

 娘は余計に夫とべったり好意を示すようになった。気を良くした夫もそれに応え、親子の時間を増やしていく一方。

 おかげで玲美亜はより疎外感を覚えるようになっただけ。

 完全に逆効果だった。

 育児は辛いだけ、何故母親になってしまったのだろうと後悔ばかり。

 そんなある日の夜、事件は起きた。


「お風呂の時間よ」

「はーい」


 三歳になった娘との入浴時。

 娘には厳しくしつけをしているので、「嫌い」と言いながらもこちらの指示を聞いてくれる。何でも自分でやりたがる第一次反抗期という時期らしいが、の成果かそれらしき兆候は見られない。玲美亜にとって都合の良い子に育っているのだろう。かつて自分が受けた教育をそのまま実行している、とは微塵みじんも気付いていなかった。


「ちゃんと湯船に浸かるのよ」

「はいはーい」

「“はい”は一回って言っているでしょ!」


 気を抜くとすぐにこれだ。

 良い子の返事をきちんと教えているのに、時折ふざけるから困る。

 玲美亜は娘の頭頂部を鷲掴わしづかみにし、未成熟な顔を水面に叩きつけた。「ぎゃあ」とやかましく泣き出すのでもう一度水面へ。罰として少し長めに潜らせておく。


「ママは頭を洗っているからね、静かにしていなさい」


 まったく、子育て中では落ち着いて風呂にも入れない。洗髪くらいゆっくりさせてもらいたいものだ。綺麗な黒髪が傷んでしまうではないか。

 と、愚痴ぐちを内心呟きながら、シャンプーをぶっかけて頭皮をマッサージし、シャワーでざっと髪の毛の泡をすすぐと、浴槽で娘が浮いていた。


「……え」


 うつ伏せの娘が、ぷかぷかと海月くらげのように漂っている。

 水面から出た背中と蒙古斑もうこはんのある尻に、小さな波が何度も打ちつけている。

 泣かない、騒がない、息もしていない。

 ――やってしまった。

 その後、帰宅して事態を知った夫が通報。病院に搬送されるも娘は既に溺死していると確認される。更に体中の痣から虐待の疑い有りとして玲美亜は逮捕されるのだった。


「私が悪いんです。私が目を離したから、娘は溺れたんです」

「虐待をしたという認識は?」

「はい、あります」


 裁判では自身の罪を認めた。溺死は事故だろうが、虐待は間違いなく自分の責任だ。認めざるを得ない。

 しかし、その発端は、


「でも、夫が悪いんです。私のことをないがしろにして、娘とは遊んでばかりで!」


 全て夫に責任があると主張したのだ。

 何故そうなる、と首を傾げる言い訳である。だが弁護士はそれを全力で擁護ようごし、事件に至った最大の原因は「夫が妻の寂しさに気付かなかった」「育児の大変さを押し付けて、楽しいところだけ携わっていた」こと、加えて「虐待に気付かなかった夫にも責任がある」とした。

 更に、娘とべったり遊んでいた件に関して、


「きっと、夫はロリコンのがあったんです」


 と、小児性愛者というあらぬ疑いまで持ち出した。

 無論夫側も反論した。「寂しさが虐待の言い訳になるはずない」「娘に対する愛は父親としてだ」と必死に弁解したのだが、結局懲役一年半程度が落としどころとして裁判は終結。夫とは離婚してそれっきりだ。

 出所後は前科者のため再就職に苦労した。自分の能力に見合った仕事にはありつけず。職場では相変わらず馴染なじめないまま、人間関係はギスギス極めて最悪だ。

 もう嫌だ、働きたくない。

 憂鬱ゆううつになりながらも、真面目な性格故に無断欠勤という選択肢はなく。来る日も来る日も嫌々出社して、何の前触れもなく拉致され、デスゲームに参加させられた。

 以上が玲美亜の半生である。


「私は悪くない、真面目にやってきた。周りの期待に応えられるよう頑張ってきただけ。なのに、なのにどうしてこうなるのよ!」


 生まれてこの方、ずっと人の言う通りにしてきた。それが正しい道だ、きっと幸せになれると信じてきた。

 その結果がこれである。

 真面目一筋で努力した者が報われない、そんな社会が悪いに決まっている。

 真摯に生きることこそ美徳だとうそぶいて、正直者を騙した責任を取らない世の中の方が狂っている。

 玲美亜はそうやって、自身に関わる全ての失敗を他人や社会に責任転嫁してきた。

 自分は被害者だと信じて疑わず、悲劇のヒロインなのだと言い聞かせ続けてきたのだ。


「きっとこれも、あなたの仕業なんでしょう?」


 レジカウンターの天井に備え付けられた監視カメラに向かって呟く。

 デスゲームを主催した者の正体、その内の一人はなんとなく察しがついた。恐らく元夫だろう。玲美亜に恨みを抱く人間は彼ぐらいだ。愛する娘をいたぶり殺され、挙げ句小児性愛のレッテルを貼られた彼ならやりかねない。玲美亜を襲って拉致くらいするに決まっている。


「待ってなさい。倍返し、いいえ、億倍返しにしてやるわ」


 そう吐き捨てた玲美亜はレジカウンターを後にする。

 主催者の一人だろう元夫に仕返しをするためにも、今は生き残ることが先決だ。身を守る手段、武器の一つでも所持しないと話にならない。

 そこで今度は試着室に目を付けた。

 店内に三つ設置された小部屋。着替えを覗かれないようカーテンで仕切られたそれは、まさに「何か隠してありますよ」と言外に告げているかのようだ。内一つは既に入室済みだが、残り二つは手つかずのまま。そこにまさかの武器が置いてあっても不思議ではない。

 手始めに手近な試着室のカーテンを開けるも、そこにあるのは縦長の姿鏡があるだけ。めぼしい物はなし。床や鏡にも仕掛けはなさそうだ。次の試着室も変わらず。ただの個室だった。

 さすがに安直過ぎる発想だったか。

 そう口先を尖らせながらも、玲美亜は最後の試着室を訪れる。既に一度使用した場所だが、改めて調べたら意外な物が出てくるかもしれない。駄目で元々、念のための確認だ。

 と、淡い希望を抱いてカーテンを開ける。

 果たしてそこには――何もない。姿鏡に映る玲美亜、血色の悪い地味な中年女性が立っているだけ。その後ろに一回り大きい男がいた。


「えっ」


 背後に誰かがいる、と反射的に振り向く。

 真後ろにいたのは、鬼気迫る形相で見下ろしている守。

 鼻息を荒くして、口元からよだれを垂れ流し、手にした銀色を振り上げて。

 降下してきた重い塊が玲美亜の顔面にめり込んだ。

 ぐしゃり、と西瓜すいか割りみたいなへしゃげ潰れる音が脳に直接響いてきた。


「うぁ」


 足がもつれて試着室の中へどうと倒れ込む。ひじしたたかに打ちつける。受け身が取れなかった。

 痛い。激痛という言葉すら生ぬるく感じる。娘の出産時とは比べものにならない痛みが顔から全身へと拡がっていく。

 何が、どうして、こうなった。痛くて思考がまともに働かない。

 こつん、頭頂部に冷たい平面が触れる。鏡だ。

 視界がちかちか明滅するまま、自身に起きたことを知ろうとして、総毛立そうけだつ。

 鏡に映っているのは落ちて潰れた果実、もしくは水分過多で裂果れっかしたトマトのよう。

 玲美亜の鼻はへし折れ陥没し、くちびるがばっくりと縦に裂けている。赤黒くにごった血は止めどなく、ぼとぼと壊れた蛇口のように垂れ流し。シックなトップスを情熱的に染め上げていく。

 守に殴られた、金属バットで、思い切り。

 殺される。

 このままでは殺される。


「が、がぼっ。ごぼぼっ」


 助けを呼ばなくては。しかし、鼻と口から逆流する血液が気道を塞ぎ、声は出ないし息も絶え絶え。うがいをしているような音が漏れ出るばかり。

 溺れる者はわらをも掴む、という慣用句の通り、玲美亜はすがるように手を伸ばすが、無情にもそこへフルスイング。細い指はパキポキとあらぬ方向へ折れ曲がり、つめは剥がれて血だまりに舞い散る花びらと化す。


「がふっ、いっ、いぶっ!?」


 許して。

 殺さないで。

 命乞いをしているつもりだが、けものうめきにしか聞こえない。もっとも、たとえ人語がはっきりしていたとしても、守は聞き入れなかっただろう。

 一振り――ぶんっ、ぐしゃ。

 二振り――ぶんっ、ぐしゃ。

 三振り――ぶんっ、ぐしゃ。

 金属バットが玲美亜の肉体を繰り返し殴打する。

 すねを折り、腹を押し潰し、肩を粉砕する。死にたくない、と逃げるほどに急所を外れ、苦痛の時間が長引くだけ。


「う、ごぼっ……」


 自らの血に溺れて断末魔すら上げられない。

 娘も死ぬ瞬間に同じ苦しみを味わったのだろうか――などと感傷に浸ることもなく、玲美亜はただただ自身の一生を恨む。真面目に生きてこの結末は間違っている、と意識が闇の底に沈むまで何度も呪う。

 両親が、教師が、学校が、職場が、社会が、元夫が。

 自分以外の全てが悪いのだ、と。

 可哀想なヒロイン気取りの悲喜劇はこうして幕を閉じるのだった。

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