第二章:DANGEROUS

朝多安路 9


 静寂で満たされた室内。

 誰もが起きた事実を受け入れられずに呆然としてしまう。

 先程までわめいていた織兵衛が血を垂れ流して倒れている。折れ曲がった体勢のままぴくりとも動かない。

 もう死んでいるだろう。

 安路は心のどこかでそう確信していたが、死を認めたくなくて何も出来ず立ち尽くしていた。


「どいて!」


 沈黙を引き裂き、時を動かしたのは明日香だった。

 守を突き飛ばして横たわる織兵衛に駆け寄ると、皺でたるんだ首筋に指を沿わせる。脈をとっているのだ。


「駄目、もう……」


 だが、結果は織兵衛の死亡が確定しただけ。涙を浮かべた明日香はふるふると、凍り付いた面持ちで首を振っていた。

 やはり、これは死体なのだ。生で見るのは初めてかもしれない。知り合いの患者が亡くなる経験はあるものの、死の瞬間を目の当たりにしたことはなかった。その生々しさに胃液が少し逆流しそうになってしまう。


「あ、あなたのせいよ」


 玲美亜がキッと下手人げしゅにんの守へと目角めかどを立てる。


「な、なんだよ」

「あなたは人殺し、れっきとした罪人よ。……いいえ、それだけじゃない。参加者が一人減ったってことは、あの文の条件が達成出来ないってこと」


 “六名の罪を悔い改めし者が座する時、残されし最後の者が光を臨める”


 彼女が言う文とはモニターに表示された上記の言葉だ。


「つまり私達は、ここから、この場所から二度と出られないってことよ!」


 そうか、そういう意味か。

 どうしてそこまで考えが及ばなかったんだ、と安路は自責の念に駆られる。

 文章では“悔い改めし者が座する時”とあるが、それはすなわち座る者が何らかのアクションを取るのが条件ということ。そのまま読み取るとしたら、自身の罪を監視カメラに向かって懺悔ざんげするか、罪状を告白しながら座るとか、特定の自発的行動が必要だったのかもしれないのだ。

 しかし、織兵衛が死亡したせいで座るべき六人に欠員が出た。これでは一人足らず条件は達成されず。デスゲームのクリアが不可能になってしまったのだ。


「これだから後先考えない低脳男は! あなたのせいで何もかもが台なしよ!」


 唾棄だきする勢いでまくし立てると、玲美亜はモニターへと視線を移す。七人の名前とそれに対応する生き物のマーク、そして意味深な一文は変わらずそこに映っている。


「あああああっ! なんで、なんで私がこんな目にぃいいぃいっ!」


 今度は明日香の慟哭どうこく木霊こだました。


「いつも、いつも私ばっかりぃいぃいいぃっ!」

「ちょ、落ち着いて下さい、申出さん!」


 まるでだだっ子のように手足を滅茶苦茶めちゃくちゃにばたつかせている。誰よりも早く織兵衛の生死を確認した人と同一人物とは思えない変貌へんぼうぶりだ。

 安路はなだめようと震える肩に手を添えようとして、


「触らないでっ!」


 指先が触れた瞬間、はたかれた。

 ぱしんっという音の後、遅れて手の甲が熱を帯びてくる。


「痴漢、セクハラ、ううん、強制わいせつだからっ!」

「えっ、え?」


 彼女は、一体何を言っているのだろう。

 安路の思考は完全に停止していた。否、他の者も、明日香の奇行に戸惑いを隠せずにいる。


「女性に触るのは犯罪って知らないの!?」

「べ、別に悪気があった訳じゃないんだけど……」

「そんなの関係ない! 男はみんな生まれながらにおおかみ、ケダモノ、犯罪者なのよ! ちゃんと自覚しないと駄目なの!」


 全く話についていけず目が点になってしまう。

 昭和時代の曲にそんな歌詞があったのは知っている。安路に割り当てられた生き物が狼というのもその通り。だが、ケダモノや犯罪者呼ばわりされるとは。

 もちろん、痴漢やセクハラはいけない。正義の名の下に断罪されるべきだろう。

 しかし、デスゲームの最中に気にする事柄なのか。生きるか死ぬかの瀬戸際、実際こうして死者が出ている現状をの当たりしたら、もはや些末事さまつごとと言わざるを得ない。

 そもそも肩に触れる程度で犯罪はあまりにも過剰。満員電車で通勤鞄が触れただけで痴漢扱いするような所業だ。目を合わせただけで不審者として通報されかねない。

 まさかこれ程までに過激だったなんて。

 書店で見つけた新書で大方の思想は知っていたが、文字の羅列と実際の行動では大違いだ。

 “真の女性に男はいらない”。著者、申出明日香。

 結婚や子供を産んで当然という空気、女性は常に美しくあるよう努力するべきだ。そんな男が身勝手に作り上げた男尊女卑の社会、女性らしさの押し付けが蔓延はびこる世の中でいかに生き抜くべきか。著者の貧乏で恵まれなかった人生を踏まえつつ、未来を生きる女性が持つべき心構えがみっちり詰まった一冊だ。同志は多いようで、巻中に掲載するためのコラムを寄稿した人もいた。

 明日香は一部界隈で有名人らしい。病院暮らしで世間にうとい安路には縁のない話なのでピンとこなかったのだが。


「あのぉ、申出さん?」


 また過剰な反応をされると困るので、そっと腰を低くして声をかける。今度は問題なかったらしく、明日香は緩慢な動作でこちらを振り向いてくれた。もっとも、じっとりした瞳は「何の用だ、犯罪者」と物語っている。


「申出さんの本、読みました。僕はまだその域には達していませんけど、とても頑張っているなって思いました」


 我ながら小学生の読書感想文並に無味乾燥だと嫌になる。だが、冷静さを欠きへそを曲げた彼女のため、何としても機嫌を直してもらわないといけない。ただでさえ人が死んで切羽詰せっぱつまった状況だ、これ以上余計な軋轢あつれきを生み出している場合ではないのだ。


「……ホント?」


 明日香の仏頂面が、ぱっとフラワーショップのように華やいだ。

 一言褒めただけでこの威力、あまりの手軽さで逆に困惑してしまう。あまり比較対象がいないのだが、少なくとも冷静沈着な恵流とは大違い。雲泥うんでいの差、月とすっぽんである。

 だが、機嫌が良くなるのならそれに越したことはない。


「で、でもあたし、よく“生意気だ”って批判されるし、運も悪くて酷い目に遭うし……」


 と思いきや、今度は自らネガティブの谷底に身を投げ出した。

 もっと褒めと慰めが欲しいのだろうか。さすがの安路も面倒臭さにまゆをひそめてしまう。だが、ここで諦める訳にもいかないので、


「ひ、批判なんて気にしちゃ駄目ですよ。僕なんて病弱なせいで悪口は日常茶飯事だし。それに運が悪いなんて、ここにいる全員がそうですから。申出さん一人で抱え込まず、みんなで解決しましょうよ!」


 どうにか励ましの言葉をひねり出した。

 参加者が一人死亡し、ゲームクリアが不可能になったかもしれない。

 しかし、まだ希望はついえていないはず。

 主催者が設定した条件は無理でも、裏技――ルールを無視してこの施設から脱出すればいい。むしろ誰を座らせようかと蹴落とし合うよりずっと健全だ。

 こんなところで立ち止まっている場合じゃない。


「なぁ。もうおしまいだ……なんて決まってねーよな?」


 ずるずる、ずるずる。

 守が何か重たい物を引きずっている。


「満茂さん、それって……」


 中腰姿勢で運んでいたのは血塗れの織兵衛だ。ぼろきれのようなすそごと足首を掴み、手近な椅子――門を前方として、右側の前から二脚目――までずるずると。傷口から漏れた赤い色が、血のわだちを描いている。


「ほらコイツさ、座りたがってたろ? だからさ、冥土めいど土産みやげによぉ……――どっこいせっと!」


 守は死体のわきに両手を差し込み持ち上げる。血の臭いに加えて加齢と不潔さを混成させた臭気で、眉間みけんは不快さでくしゃりと歪んでいた。


「ほら、よっ!」


 手を離すと織兵衛の体は支えを失い、重力に従って椅子にどっかり腰をかけた。金属片の継ぎ接ぎで構成された椅子が激しくきしむ。だが、壊れる様子はない。老人の死体を取りこぼすことなく受け止めていた。

 すると直後に――ガチャッ。椅子の内部で何かが起動した。


「うおわっ!?」


 至近距離にいた守が一番に飛び退いて、つられて他の者も後ずさる。

 この施設の中で最も怪しかった器具が、遂にその全貌を明らかにするのか。ガチガチと響く椅子のうなりを前に、誰もが固唾を呑んでしまう。

 そして、それは飛び出した。

 ――ガシャンッ!

 肘掛ひじかけにあたる部分の下部から、本体同様の錆び色をしたベルトが伸びる。薄い金属の板らしい。ベルトはあっという間に織兵衛に巻き付き、その体を座席に固定してしまうのだった。

 椅子はそれ以上の動きを見せず、再び室内は静まりかえる。


「は、はは、ははは」


 守が乾いた笑いを漏らした。

 椅子の仕掛けは想像より優しかった。忌憚きたんなく言うのなら拍子抜けだ。

 安路をはじめ参加者の誰もがこの椅子を、地獄の苦痛を与える拷問道具か座れば即死の処刑道具、のいずれかだと恐れていた。しかしふたを開けてみれば、ただベルトが出てきて拘束されるだけだ。デスゲームと称する割に肩透かしである。もっとも、拘束されれば二度と抜け出せないだろう。甘く見てはいけないのは確かだ。


「ねぇ、モニターを見なさい」


 恵流が患者衣のそでを引っ張った。

 命令口調で何事かと彼女が指さす先を確認すると、表示が変わっている。蝸牛かたつむりのマークは点灯したまま、その隣に記されていた“笛御織兵衛”の名前が消えていた。

 何故、このタイミングで。

 織兵衛が死亡した時は変化しなかったのに、椅子に座ったら名前が消えた。

 まさか“六名の罪を悔い改めし者”の一人としてカウントされたのか。いや、既に死亡した者が座っただけで“悔い改め”た扱いはおかしいだろう。これでは六人分の死体を集めて座らせれば、生き残った最後の一人がゲームクリアの条件を達成出来る、ということになってしまうのだから。


「どうやら、デスゲームは続行らしいな」


 にたり、と守の口角がいびつな三日月を描く。お得意の恫喝どうかつとは別種の恐れを抱かせる、胸の奥が凍えそうな笑みだった。

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