漆原恵流 2
相手は金属バットを構える中年男性。相対するこちらは普通の女子高校生に病弱男性のコンビだ。一対二で人数のアドバンテージはあるが勝負は五分五分、それどころか相手の方が圧倒的に有利だろう。
「は、はははっ」
守はへらへら、どちらから襲おうかと
確実に
自分達に残された選択肢は、戦うか逃げるか。普通の女子高校生だったら逃げる一択だろうが、今の恵流にはこの状況をひっくり返せる切り札がある。
あるにはある、のだが。
使いたくない。
制服のスカート、その内側にある秘密のポケット。そこに隠した切り札は
どうするべきなのか。
書店の新刊本コーナーで平積みされていた本。派手なポップで宣伝されていたそれの下に潜んでいた物。それこそが恵流の切り札だ。主催者が殺し合いに駆り立てるために用意した武器の一つ。金属バットやバタフライナイフ、クロスボウと同じ隠しアイテムである。
コレを用いれば守の撃退など
極限の状態の中、迷いが生じて決断出来ない。
目の前の危機を回避するために切り札を失うか、切り札を
どちらも選びたくなかった。
「くたばれや、オラァッ!」
だが、守は待ってくれない。
眼前で振り上げられる金属バット。通路の照明を反射し鈍く輝く
避けないと。
金属バットの攻撃範囲から脱しようとして、ガツッと体が小さく揺れた。ローファーの
振り下ろされる金属バット。
しまった、間に合わない。
すぐに立ち上がらなくては。
ばっと顔を上げる恵流。その目に映ったのは、背中を殴打されて身を丸めて苦しむ安路の姿だった。
自分を押し倒して庇ったのだ、と恵流は瞬時に理解した。彼は約束通り、身を
「はは、ひょろい割に男気あンじゃねーか」
動けない安路を見下ろす守は、勇敢な行動を称賛するも慈悲はない。追撃で息の根を止めようと金属バットを天高く掲げる。
「はぁっ!」
恵流は身を起こすと床に手をついたまま、両足を守の腹部めがけ突き上げるように蹴りを叩き込む。ドロップキックだ。
ぐにゃり。がら空きな中年太りの腹に
「ぐぉっ、おえっ……げぇぇっ!」
反撃で内臓がひっくり返ったらしい守は、込み上げる吐き気を我慢出来ずその場にうずくまる。びちゃびちゃと水音が聞こえる。胃の内容物が逆流したのだろう。渾身の蹴りは
今のうちだ。
負傷した安路を抱き起こすと肩に手を回し、即座にその場から逃げ出す。まるで二人三脚だ。ペアの相手は怪我人なので早歩き程度の速さ。一般的な成人男性よりも軽いのが救いだが、これではすぐに追いつかれてしまうだろう。
「やりやがったな、このクソアマがぁっ!」
もたついている間に守が復活する。口元の胃液を
距離にしておよそ五十メートル。十秒以内に追いつかれてしまうだろう。
歯科医院やトイレに逃げ込んでも無意味、隠れる間もなく金属バットの
そこで恵流は通路の先にある書店へと駆け込んだ。
本棚がずらりと並び入り組んだ内装なので、うまく立ち回れば追っ手を
「逃げンなや、待ちやがれ!」
恵流が入店した二、三秒後。守も鬼気迫る形相で飛び込んでくる。
両者の距離、残り一メートル。いつ金属バットの
その時、
しかし、守は怯まない。
その場しのぎに過ぎない、と言いたげに舌を出しながら本を踏みにじり、そしてずっこけた。ビニールで封をされた漫画本は滑りやすいし、立ち読み自由な文庫本は簡単にカバーが外れてしまう。踏めば転ぶのは必然である。
守が後頭部の痛みでのたうち回っている間に、恵流は一心不乱に書店の奥へと突き進む。
今が身を隠す絶好のチャンスだ。
そこで店内の最奥部にある
まだ未成年なのにいかがわしい区画に入るのはいかがなものか、とお
と、内心毒づきながらも、恵流はピンク色の背表紙が並ぶ本棚を
「うぐ……」
床に降ろすと安路が小さく
ひとまず身を隠せたが狭い店舗だ、じきに見つかってしまうだろう。そもそも施設全体が密室なのだ、いつまでも逃げ回れる訳がない。いつかは戦わなければいけないのだ。
差し迫った危機を前に焦りが脳内を満たして思考が纏まらない。
やはり切り札を使うしかないのか。
確かに一番わかりやすく、逆境をひっくり返すには十分な手段だ。
しかし、一度切ってしまえばそれまで。切り札は手札に抱えているからこそ心強く、相手の意表を突いて現れるからこそ強力なのだから。
非力な女子高校生が生き残るためにも手放せない。
コレを持っていると露見する訳にはいかないのだ。
息を殺して内心溜息をつく。
遠い、希望があまりにも遠い。
この場所から抜け出せたら何もかもうまくいくのに、デスゲームという厳しい現実の前では弱い参加者の一人に過ぎない。
遊びや創作物とは全く違う、本当の命懸けのゲーム。
お高くとまっていた恵流だったが、迫り来る死を前に自身の非力さを痛感し、唇を強く噛みしめるのだった。
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