第31話 ボルドビア軍。

 ふいにリリアは目を覚ました。


「ここは……」


 呟きと共にゆっくりと身を起こす。自分の体がまるで泥にでもなったかのように酷く重い。虚ろな目で辺りを見渡す。

 清潔ではあるが寝台以外の調度品が全く無い簡素な部屋は、明らかに王城での自分の部屋ではない。霧がかかったような思考のまま緩慢な動きで床に足を下ろす。顔にかかった髪をかき上げた瞬間、薬草の匂いが鼻先をかすめた。

 その途端、走馬灯のように記憶が蘇ってきた。


「! あ、……ここは東の砦。私は薬を作り終えて──」


 リリアの記憶はジェラルドと話をしている途中で綺麗に途切れてしまっていた。蒼白になりながら目覚めた時から絶え間なく聞こえてきている窓の外の只ならぬざわめきが気にかかった。金属が擦れ合う音と大声で何かを言い合う声が途切れ無く聞こえてくる。


「何かしら?」


 嫌な胸騒ぎに寝台から抜け出し窓を開けた。吹き込んで来た冬を感じさせる冷たい風が容赦なくリリアの身体から体温を奪う。リリアは体を震わせながら窓から顔を出した。目下を甲冑に身を包んだ兵士達が忙しなく動き回っている。その様子に不安が募る。

 そして、ふと視線を上げ、リリアは目を疑った。山間をローラン国側からベルンシュタイン国との国境に向け、おびただしい数の異国の兵が進軍して来る様子が見えたのだ。掲げられた国旗はボルドビア国のもの。


「──ローラン国と戦をしているボルドビア国がどうして……」


 慄くリリアの声に答えるように背後から扉を叩く音がした。


「はい!」


 リリアは急いで扉を開けた。


「!? ジェラルド……」


 目の前に立っていたのは東の砦を守るアルビオン家の当主、ジェラルドであった。彼もまたすでに銀色に輝く鎧を身に着けている。


「目覚めておられたのですね」


 ジェラルドはリリアが寝巻姿であることに気付くと、すぐさま自分のマントを外し、リリアの身体を包んだ。


「おまえ達はここで待て」


 ジェラルドは従者達を扉の外で待たせ、一人部屋の中へと入って来た。


「王女殿下、落ち着いて聞いてください」


 リリアは早い鼓動を抑えるように胸に手を当てた。ジェラルドの濃い茶色の瞳がリリアを見下ろしている。その深刻な表情を見れば、事態が緊迫していることを物語っていた。


「ボルドビア軍がこの砦に向かって進軍して来ています。貴方は急ぎガルロイ達と共に王都へお戻りください」

「……戻る? どうしてですか? 戦か起こるのでしょう? 今、私がここを出れば、まるで私だけが逃げる様ではありませんか!」


 動揺するリリアと対照的にジェラルドは酷く落ち着いているように見えた。


「そうです。貴方にはこの砦から逃れていただきたいのです」

「!」


 青ざめた顔で瞠目するリリアの両手を、ジェラルドの手がそっと包み込む。貴族らしく優雅に見える彼の掌は剣を使う者独特の大きくて硬いものだった。


「敵の数があまりに多い。今、この砦には三千の兵がいますが、まともに戦える数は恐らく二千ほど。それに対して、向かって来る敵はその五倍。恐らく、王都から援軍が到着するまで、この砦が持ちこたえることが出来るかどうかは、もはや懸けでしかない。私どもが敵兵を国境で足止めしている間に、あなたは王都へ戻るのです」

「そ、そんな……」


 絶句するリリアの姿を、まるで目に焼き付けるかのようにジェラルドは見つめている。

 そして、リリアの両手を包んでいる手に力が込められた。


「……すでに、ガルロイ達には準備をさせています。用意が整い次第、すぐにここを発つのです」

「嫌です! 私は、あ……」


 首を振りジェラルドに縋り付いたリリアの体を、ふいにジェラルドが抱きすくめた。その腕に力がこもる。


「ジ、ジェラルド……」


 苦し気にリリアがジェラルドの名前を呼べば、彼は酷く名残惜しそうに体を離した。眼差しの強さとは反対に、リリアの華奢な体を腕から開放する。


「どうか、道中ご無事で……」


 そう告げると、ジェラルドは初めて硬い相好を崩した。

 だが、すぐに切なげに端正な顔を歪ませ、リリアに背を向ける。


「ジェラルド!」


 リリアは彼の名を叫んだ。

 しかし、ジェラルドは振り向くことはなかった。強い決意を感じさせる足取りで部屋から出て行ってしまった。その後ろ姿を見送ったリリアは力なく崩れるように冷たい床に座り込む。


「姫様?!」


 間を置かずして部屋へやって来たガルロイは、床に座り込んでいるリリアの姿に驚き急いで駆け寄って来た。


「大丈夫でございますか?」


 助け起こすガルロイを見上げたリリアの翡翠色の瞳から、一滴涙が零れ落ちていった。

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