第29話 牢獄。
微かに兵士達とは違う足音が聞こえる。
誰かが石の通路ひたひたと足音を忍ばせながら速足で近づいて来る。俯いていたクロウがゆっくりと顔を上げた。
ジャラッ
クロウの動きに合わせて、彼の腕を拘束している鎖が鳴る。壁から伸びるそれは、彼の体の動きだけでなく、心までも封じているように見えた。
「! 酷い。どうして、こんな……」
鉄格子の向こうで、鎖で繋がれたクロウの姿を目にした足音の主が言葉を途切れさせる。
サラだった。
彼女は聖堂で働く者が身に着ける白く丈の長い衣装にすでに着替えていた。
「……どうして、こんなところにいる?」
クロウは僅かに眉間に皺を寄せて尋ねる。その声は掠れていた。
「食事を持ってきたのです」
そう答えたサラは、手にしている盆をクロウに見えるように差し出す。盆の上にはパンとスープが載っていた。
「─────また、俺はあんたを巻き込んでしまったのか。……すまない」
とても苦しそうな表情を浮かべ、クロウはサラに向かって頭を垂れた。
「え?! ち、違います! 私からお願いしたのです」
少し慌てた様子でサラは持ってきた盆を下に置くと、急いで鉄格子の扉の鍵を開ける。
ガシャンッ!
鍵が開く大きな音が石の壁に反射して響き渡る。サラは扉を開けると、再び盆を手に持ち身を屈めて牢の中へ入って来た。
「どこか、痛むところはありませんか?」
鎖で手足を拘束されたクロウの傍へ近づきながら、サラは心配そうに尋ねる。
「もう、俺にかまうな。あんたは、子供達のところへ戻るんだ」
「いいえ。あなたが自由の身になるまでは、私は戻りません!」
強い意志を感じさせる眼差しでサラはクロウを見つめてくる。はじめて会った時、彼女は敵兵たちが大勢いるところへ向かおうとしていた。その時と同じ目をしている。
「……あんたを見ていると、俺の大切な人を思い出す。勝手な言い分だが、あんたには危ない目にあって欲しくはない」
クロウの表情が変わる。どこか遠くを見るような優しい眼差しを受け、サラは一瞬悲しそうな表情を浮かべた。
だが、まるでそれを消し去るかのように、サラは明るく微笑む。
「私は、大丈夫です」
「……俺は、あんた達の国を見捨てて出て行こうとした。気に掛ける必要などない」
サラは首を振った。
「見捨てるだなんて……。私は、いえ、私達はすでにあなたに助けられました。それに、あなたはこの国から逃げるのではないのでしょう? ベルンシュタイン国へあなたの大切な人を助けに行こうとしている。そんなあなたを、この国の誰に止める権利があるというの?」
クロウは瞠目する。
「私が絶対にここからあなたを逃がします。だから、それまでは絶対に無理はしないでください」
「……そのようなことをされると、困るのだがな」
クロウを逃がすと宣言したサラの背後に、突然オリオールが現れた。驚いて振り返ったサラは、自国の王の姿を目にし、青ざめた顔で崩れるように床にひれ伏す。
「こ、国王様……」
可哀そうなほどサラの声は震えている。オリオールはちらりとサラを一瞥した。
「この娘の処遇は後で考えるとして………」
「違う! その娘は関係ない!」
鎖を引き千切りそうな勢いで、クロウはオリオールへ必死で訴えかける。
だが、オリオールは片手を上げて、クロウの訴えを遮る。
「落ち着け、クロウ。私は戦の準備の合間をぬっておまえと話をするために一人でここへ来た。私達には僅かの時間しかないのだ。たかが小娘一人のために時間を無駄にしたくない」
「この娘の身の安全が先だ!」
クロウは引き下がらない。オリオールとクロウはほんのつかの間睨み合う。再び静寂が彼らを包む。オリオールは鷹揚に腕を組むと、近くの壁に背を預けた。
「……おまえは自分の状況が分かっていないようだな。私はこの場でおまえ達二人の首を刎ね飛ばしても、誰も文句は言えないのだぞ」
クロウは黙したまま、険しい眼差しでオリオールを見ている。オリオールは大きくため息をついた。
「とにかく、聞け。おまえが気にかけているベルンシュタイン国にも関係のあることだ」
クロウの表情が明らかに変わった。彼の腕を拘束している鎖がギリリと鳴る。
「……我が国の砦が二か所も易々と落とされた理由がやっと分かったのだ。今ベルンシュタイン国に蔓延している病と同じものがどちらの砦でも蔓延していた。兵達がバタバタと病に倒れていく中、攻められればひとたまりもない。だが、それはボルドビアの策によるものだったのだ。奴らは病に感染させた者をわざと我が国の兵に捕えさせ、砦の中で病が蔓延した頃を見計らって、攻め込んでいたのだ。自国の兵達にも感染する可能性を考慮すれば、にわかには信じられぬ策ではある。しかし、伝染する病が蔓延する砦に籠っていても、ボルドビアの兵達が感染した様子はなく、それどころか我が城へ攻め登ってくるというのだから、きっと病に効く特別な薬をもっているのであろう」
話を黙って聞いているクロウの額を、汗が流れる。
ベルンシュタイン国で蔓延している病。
砦。
ボルドビアの策。
そして、東へ向かって安全な王都を出たリリア。
クロウは叫び出してしまいそうな衝動を、歯を食いしばり必死で堪えていた。拳を握りしめれば、鎖が再び悲鳴のような音を立てる。
その姿をオリオールは静かに見下ろしていた。彼の視線はクロウの腰に帯びている長剣で止まる。
「……クロウ、なぜおまえは捕らえられようとした時、おまえの腰に帯びている伝説の剣を抜かなかったのだ?」
「──────ベルンシュタイン国の王がこの国との和平のために贈った剣だ。その剣をこの国の者に向けることはできない」
オリオールは目を閉じる。その表情には苦悩がにじみ出ていた。
「私はこの国の王だ。この国を守る義務と責任がある………」
まるで自分に言い聞かせるように呟くと、再び目を開けた若きローラン国の王は強い意志を感じさせる視線をクロウにひたっと据えた。
「おそらくベルンシュタイン国も我が国と同様にボルドビアの策に落ちようとしている。だが、この王城へボルドビア軍が攻め上がって来るこの時に、我が国から救援の部隊を割くことは出来ぬ」
オリオールは壁から背を離すと、砂色の髪をかき上げた。淡い褐色の瞳に熱が籠る。
「クロウ、おまえは今からたった一人でベルンシュタイン国へ向かえ。そして、必ずボルドビア軍の魔の手からベルンシュタイン国を守れ。これは命令だ!」
クロウの黒く澄んだ瞳が大きく見開かれる。
「娘、これはこの男の両手足を縛る鎖の鍵だ。おまえが、外してやれ。それでおまえの罪を帳消しにしてやろう」
そう言って、オリオールは鍵の束をサラの目の前に放り投げた。石の床に落ちた途端賑やかな音を響かせるそれにサラは飛びつく。
「! ……国王様、ありがとうございます!」
サラは鍵の束を大切そうに胸に抱き、感極まった声で感謝の言葉を告げた。その声を背に受けながら、オリオールは踵を返し出口に向かう。
「オリオール王!」
クロウが声を上げた。オリオールの歩みが止まる。
「感謝する」
クロウの真摯な声と共に、彼を戒める鎖が鳴る。オリオールは背後で自分に向かって頭を垂れるクロウの気配を強く感じながら、再び歩き出した。
そして、通路の角にさしかかると、そこには彼の臣下達が顔を揃(そろ)えて若き主君を待っていた。ルソー将軍がにやりと笑う。その表情を受け、オリオールは胸を反らす。
「ふん! 皆聞いていたのなら、話は早い。我が軍の誇りにかけて、クロウに後れを取るな。愚かなボルドビア軍を即刻迎え撃ち、あやつよりも早く北の蛮族どもをこの地より追い出してしまえ!」
はっ!
覇気のある臣下達の声を聞き、オリオールは大きく頷いた。
そして、清々しい笑顔を浮かべ歩き出す。揺るぎない勝利を信じて。
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