第16話 黒髪の男。
『おまえが、私の息子であることを誇りに思う』
大きな手が少年の頭の上に置かれた。
濃い焦茶色の髪の少年は、髪と同じ暗い色の瞳を見開き、目の前に立つ父親を見上げた。
整ってはいるものの生気がなく、表情が乏しい少年の顔に徐々に感情が現れ始めた。陶器のような白い頬には朱が差し、瞳に光が灯る。
この少年には、年の離れた兄が二人いた。どちらも非常に優秀で、長兄は侯爵家を継ぐ者として大いに期待されていたし、次兄は国王の近衛隊ですでに騎士として目覚ましい活躍を見せていた。
そんな兄達を両親はとても誇りに思う一方で、三男の優れた才能や努力は優秀な兄達の陰で彼らの目に留まることはこれまで一度としてなかった。
それでも、少年はただ黙々と学問を学び、剣の腕を磨き続けていた。いつか自分も兄達のように父や母に認めてもらえる日がくるのだと信じ。
だが、忙しい家族たちは屋敷にほとんど滞在していることはなく、彼らにとって少年は『そういえば居たな』程度の存在でしかなかった。
いつしか少年の心は、冷たく、固く閉ざされていた。
そんなある日、少年の生まれ育った国に初の王女が産まれた。
この先、女王になる赤子だ。その赤子はこの国の誰もが崇拝する精霊の乙女と同じ翠緑色の瞳を持っていた。
この王女の夫の有力な候補として少年に白羽の矢が立つと、両親や兄達だけでなく一族の者達までもが喜びに沸いた。
協議が行われるが、おそらく少年に決定することは間違いなかった。
というのも、身分、学問、さらには剣術などすべてにおいて、少年を上回る者などいなかったからだ。
歓喜。
祝福。
満足。
今まで感じたことがなかったこの世のあらゆるキラキラとした幸福というものの中に、いつのまにか少年は身を置いていた。
『ああ! 僕は、女王の隣に並び立つ者として生まれてきたんだ!』
深い闇に閉ざされていた少年の心は、まるで氷を解かす春の日差しのような暖かい光で満ち溢れていた。
************
ベルンシュタイン国王の執務室では、シュティル国王とその養女であるリリアが医療院の建設状況の報告を受けていた。
「予定よりも、早く完成しそうだな」
「はい。働き手達が意欲的に作業に取り組んでいますので、驚くほど早く進んでおります。加えて、貴族の方々が思いのほか資金を気前よく出してくださるので……」
「なるほど、リリアに良い印象を与えたいのだろう。よかったではないか」
「……」
シュティルが笑って言えば、報告をしていた赤髪の男が苦笑する。
シャイルだった。彼はリリアと共に医療院建設に奔走していたのだ。
「ハリル子爵が、おまえの父親だと名乗り出てきたそうではないか」
「あんな男、私の父などではありませんよ」
「だが、認めさえすれば君も晴れて貴族の仲間入りだ。今後、いろいろ動きやすくなるのではないのか?」
燃えるような眼差しが国王であるシュティルを射抜く。
「無用の心配です。王女の傍にいる権利は自分の力で手に入れますから」
「なるほど。それは頼もしいことだ」
二人の会話を心配そうに見守っていたリリアにシュティルは視線を向ける。
「リリア、あまり元気がないようだが、どこか具合が悪いのではないのかい?」
シュティルはリリアの様子がいつもと違っていることに気付いていたのだ。
「え? ……だ、大丈夫です、お義父(とう)様。心配をおかけしてしまって、ごめんなさい」
「謝る必要なないよ。我が子を心配することは、親の特権なのだからね」
リリアの身を案じながら、『お義父(とう)様』と呼ばれるたび、シュティルは表情を緩める。
「殿下、私から見てもどこか沈んでいるように見えます。何か気がかりなことがあるのですね?」
やはり、長い間兄妹のように暮らしてきたシャイルの目はあなどれない。
しかし、シャイルはリリアが王女となってから、リリアと二人きりでない限り、王女と呼ぶようになった。寂しいと感じるが、こうして会えるのだから、我慢しなくてはならなかった。
「本当に大丈夫よ、シャイル。昨日、夜遅くまで本を読んでしまったからきっと寝不足なだけよ」
安心してほしくて、リリアはじっと見つめてくるシャイルに微笑んでみせる。
だが、やはり誤魔化されてはくれないようだ。シャイルの目はまったく信じていないと言っている。
「──ジェラルド、の事かい?」
探るようなシュティルの声にリリアの体がびくりと揺れた。
「ジェラルド?」
リリアの反応をシャイルが見逃すはずはなかった。シャイルが怪訝そうに眉を寄せる。
「申し訳ございません! 姫様、舞踏会での事は、陛下にご報告しております」
突然の謝罪の声に、リリアとシャイルは同時に振り向いた。視線の先では、扉の前に立っていたガルロイがリリアに向かって深く頭を下げていた。
「大丈夫です。頭を上げてください。それに、隠すようなことはなかったので……」
「リリア。これからは何でも、どんな些細な事でも、相談すると約束してほしい。一人で悩んでいても、何も解決などできないのだからね」
「……はい。お義父様」
シュティルの諭すような声に、リリアは項垂れる。その姿に、シュティルは小さくため息を漏らした。
「叱っているのではないよ、リリア。君は、私達に心配をかけたくなかったのだろ?」
戸惑いながらも、リリアは素直に頷く。
「だがね、思い悩むくらいなら話してほしい。もちろん、男の私には、言いにくい事もあるだろう。そのような時は、必ずマロウ夫人やシンシアに相談してほしい。君は一人ではないのだからね。それとも、ジェラルドに何か思い悩むようなことを言われたのかい? まさか、……何かされたのか?」
突如、シュティルの声がわずかだが低くなり、不穏な空気が漂いはじめる。リリアは慌てて頭を左右に振った。
どうやら、ガルロイは詳しくは話していないようだった。
「ち、違うんです!」
話がおかしな方向へ向かいはじめたので、リリアは思い切ってずっと悩んでいたことを尋ねる。
「お義父様。あの、……ジェラルド卿は、私の婚約者になられる方なのですか?」
シュティルは一瞬の間を置くと、納得したように微笑む。
そして、ゆっくりとテーブルの上に両肘をつき手を組んだ。
すでに、彼は冷静な表情に戻っている。
「ああ、なるほど……。確かに、彼がリリティシアの婚約者として有力な候補であったことは認めるよ。聡明なうえ、家柄、剣の腕、どれをとっても、彼に並ぶことさえできる者は他にいかなったからね。しかしだ、アルビオン侯爵家の三男だった彼は、今では当主だ。リリアとしての伴侶になることはまずはないだろ。それに、言っておくが、君の婚約者候補でさえまだ何も決まっていない状態だ。安心したかい?」
「……三男? 当主?」
婚約者がまだ決まっていなかったことにほっとしながらも、シュティルの説明がうまく理解出来ずにリリアは首を傾げた。それに気づいたシュティルが頷く。
「詳しく聞きたいのだね。ジェラルドには二人の兄がいたのだが、長兄はこの国で起きた天変地異で打撃を受けたアルビオン家の領土の修復に奔走し、過労のために若くして亡くなっている。そして次兄も、十四年前に城内へ侵入してきたリコスの兵達と戦い命を落としているのだ」
「!」
リリアは思わず両手で口を覆う。
あの夜に見せたジェラルドのあの苦しそうな眼差しが蘇り、酷く胸が痛んだ。家族を亡くすことはあまりにつらいことだ。
もしかすると、ジェラルドはリリアを憎んでいるのかもしれない。今リリアがこうして生きていられるのはジェラルドのお兄さん達の命の犠牲があってのことだから……。
「もちろん、アルビオン家だけが特別というわけではないがね」
そう言ったシュティルの声には苦い響きがあった。
前国王だったリリアの父アルフレッドが亡くなった日を契機に、ベルンシュタイン国ではあらゆる災いが起き、多くの人々が亡くなったと聞いている。
「この国では、一族の当主が王女と婚姻を結ぶことは出来ない。まあ、長い歴史の中で、王女が生まれたことは今までになかったのだかね。リリティシアはこの国で初となる王女だ」
「どうして、当主の方は王女とは結婚できないのですか?」
「この国で国王の次に力があるのが、五大侯爵家だ。彼らは元々一国の王族だったことは以前にも話したね。ベルンシュタイン国は侵略や略奪で大国になったわけではない。千年前、近隣の国々も精霊を崇拝していた。そんな中、初代国王レフィナードが精霊の乙女を妃にした事を知り、彼の元に集まったとされている。ある意味連合国のようなものだ。その為、侯爵家達の間で均衡を崩さないように決められたことだ」
シュティルの声が室内に響く中、控えめに扉を叩く音がして、国王の側近であるユーリック・オークスが姿を現した。
「失礼いたします。リリア王女殿下、地学の時間です。すでにお迎えが来ております」
「まあ、もうそんな時間?!」
「早く行きなさい。先生をお待たせしてはいけないよ」
「はい、お義父様。シャイル、明日は午後から建設現場の視察に行きたいの。いいかしら?」
「ええ、もちろん。では、昼過ぎ頃に私がお迎えにまいります」
「ありがとう。では、お義父様行ってまいります」
立ち上がったリリアは二人に向かって優雅にお辞儀をすると扉に向かう。その後ろ姿をシュティルは感慨深く見つめる。
「王族としてまったく遜色ない仕草だ。……ウォルターには感謝しかないよ。ここまで健やかに育ててくれただけでなく、王女としての基本はすでにあの子の身に備わっていたのだからね」
「先生は、いつでも国王陛下の元へお連れ出来るようにと考えておられました」
「そうか……、私が不甲斐ないばかりに、どれほどの長い時を失わせてしまったのだろうね」
シュティルはそのまま黙り込む。
「お待ちください、ガルロイ卿。今から陛下へ報告する内容を一緒に聞いていいただきたいのです」
リリアの後に続こうとしていたガルロイを、ユーリックが戸口で引き止める声にシュティルとシャイルは同時に顔を向けた。
ガルロイは一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに心配そうに振り返ったルイと視線を交わす。
「ルイ、姫様の護衛を任せる。頼んだぞ」
「了解!」
力強く頷き、扉の向こうへルイが姿を消すと、ガルロイは勧められるままシュティルと同じテーブルに着く。
「では、私は失礼させていただきます」
「いえ、シャイル殿にも聞いていただきたいので、そのままで」
席を立とうとしたシャイルをユーリックが止める。立ち上がりかけていたシャイルだったが、何かを感じ取ったように表情を硬くして素直に再び座りなおした。
部屋に静寂が訪れる。
「リリアには聞かれたくないようだな」
「はい」
ユーリックの返答にすぐさまシャイルが鋭い視線で射る。
だが、その視線に怯む様子も無く、ユーリックは全員の顔を見渡すとゆっくりと口を開いた。
「ご存じのように、ボルドビア国が突如ローラン国へ侵攻を開始しております。驚くことに、すでに2つの砦が落とされ、一度は王城までもがボルドビア兵に囲まれる事態になっています」
「ローラン国に潜り込ませている者から、報告が来たのだな?」
「はい。ただ、会議で報告するにはあまりに気になる情報がありまして……」
「何だ?」
表情は穏やかなままに見えるが、シュティルの目の奥がギラリと光る。
「ローラン国にある我が国初代国王の剣を持ち去った者がいます」
「ふむ。……伝説の剣はレフィナード以外持つことが出来ないとされていたはずだが? 実際、兄上も一度ローラン国へ訪問した際に試されたそうだが、わずかに動かすことさえできなかったと言っていた」
もたらされた情報を訝しんでいるのか、怪訝そうな表情を浮かべるシュティルに対し、ユーリックは硬い表情のまま報告を続ける。
「それが、その剣を手にした者はその剣を振ってボルドビア兵からローランの民を救い救世主だと騒がれているそうです。報告によれば、その男は若い国王に気に入られ、ローラン軍の要として活躍しているとか。その男の髪が珍しい黒髪なのだそうです」
「「「黒髪……?!」」」
三人の男の声が同時に上がった。
「クロウ……なのか?」
その場にいる者達の心の声を代弁するようなガルロイの呟きが、静まり返った部屋の中で響く。
「もしその男が、我らの知る男であるならば、彼はローラン国と手を組み王女殿下を奪いに来るつもりなのかもしれません」
「何ということをおっしゃるのですか! クロウはそのような男ではない!」
ユーリックが不安気に呟いた言葉に、すぐさまガルロイが反応した。声を荒立てて立ち上がる。
「二人とも落ち着け。……ユーリック、おまえにしては珍しいな。憶測だけで物を言うとは……。だがガルロイ、信じることは大切なことだが、過信は禁物だぞ」
「「申し訳ございません」」
国王の指摘にユーリックとガルロイは素直に謝罪の言葉を述べる。
「しかし、この度のボルドビア軍の動きがあまりに早い。ローラン国の王が代替わりしたとはいえ、ここまで簡単に砦を次々に落とされていることも不思議でならない。引き続き潜入している者に探らせ、逐一報告するよう指示を出せ」
「はい。陛下」
神妙な表情でユーリックが受ける。
「伝説の剣に黒髪の男……か」
呟くようなシュティルの声を、男達は各々の思いを胸に聞いていた。
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