第20話 疫病。

 ベルンシュタイン国の白亜の王城は、いつもと変わらぬ美しい佇まいで小高い丘の上に聳え立っていた。

 だが、城の中に入ると、すれ違う人々の顔には不安の色が色濃く表れていた。

 ジェラルド・アルビオン侯爵と共に王城へ急ぎ戻って来たリリアは、ほんの少しの間だけで、すでに城内がただならぬ雰囲気に包まれていることにさらに不安を募らせる。


「王女殿下!」


 国王の私室の扉を守る近衛兵がリリアの姿に気付き、顔を強張らせたまま急ぎ扉を開けた。

 すでに室内にいた宰相のバルトルト・ヴェルフが、居間に駆け込んで来たリリアに対し、青い顔で立ち上がった。その深刻な表情を見れば、事態がかなり悪いのだと嫌でも気付かされる。


「王女殿下、……アルビオン侯爵殿もご一緒だったのですか──」


 バルトルト宰相はリリアの背後で静かに佇むアルビオン侯爵家の当主の姿を捉えると、かなり困惑した表情を浮かべた。


「お義父(とう)様の具合はいかがなのですか?」

「今、医師が診ております。詳しくは医師に直接お聞きになられた方が良いでしょう」


 国王の寝室へ一人で通されたリリアは、室内の異様な暖かさに眉をひそめた。先ほどまで馬の背で冷たい風に当たっていた身には暑過ぎるくらいだ。


「もっと部屋を暖めるのだ!」


 だが、国王専属医師であるアロイス・バーラントはさらに室内の温度を上げるよう指示を出している。彼はおじいさんと同じ代々医師として有名な一族のバーラント伯爵家に連なる者だった。軍人だったこともあるおじいさんとは纏う雰囲気がまったく違っていたが、優し気な目元が少しお祖父さんに似ていた。

 だが、アロイスにはおじいさんのことは話してはいなかった。話してしまうと、リリアの出自も明らかになる可能性があったからだ。

 アロイスは彼自身で部屋へ持ち込んだであろう分厚い書物を難しい顔でめくっている。

 部屋の中央にある広い寝台の上で横たわっているのは、ベルンシュタイン国の王でありリリアの義父であるシュティルだ。リリアは急いで寝台に駈け寄り、呆然となる。シュティルの顔色があまりに悪かったからだ。

 

「先生! お義父様の具合はどうなのですか?」


 縋るようにリリアが尋ねれば、アロイスは力なく首を振った。


「王女殿下。……それが、分からないのです」

「分からない……?」

「会議中に予兆もなく突然倒れられたのです。一見眠っているようにしか見えないのですが、体温がかなり下がっている状態です。心臓の鼓動もどんどん弱くなってきています。とにかく部屋を暖め、体温がこれ以上下がらないようにしておりますが、……このような症状を私は見たことも聞いたことも無いのです。古い文献の中に該当する事例を探し続けておりますが、手掛かりになるような事がまったく見当たらないのです」


 アロイスはリリアから視線を逸らした。

 そして、苦し気に告げる。


「……今の私には、手の施しようが無いのです」


 思いもよらない医師の言葉に、リリアは言葉を失う。ふらりとリリアはシュティルが眠る寝台の傍らに膝を付いた。

 そして、敷布の上に投げ出されていたシュティルの右手を両手で包み込む。固く大きな手だった。たった一人でこの国をずっと守り続けてきた手だ。


「お義父様! リリアです! 目を開けてください!」


 リリアは必死になって呼びかけた。

 だが、シュティルが呼びかけに反応する気配はまったく見られなかった。顔色の悪さを覗けば、呼吸も穏やかで、医師が言うようにただ眠っているように見える。

 しかし、リリアが握っている手にはいつもの温もりが感じられなかった。リリアは体の奥から凍えていくような感覚に囚われる。


(どうすれば……)


 焦るばかりで、時間だけが刻々と過ぎて行く。


ガダガタッ!


 背後で何か大きな音がした。驚き振り向いた視線の先で、アロイスの助手の男性に抱きかかえられている国王付き侍女コリンナの姿があった。

 彼女はもう一人で立つことさえ困難な状態で、そのまま近くの長椅子へ運ばれて行く。すぐさまリリアはアロイスと共に倒れたコリンナの傍に駈け寄った。彼女の顔色はシュティルと同じとまでは言えないがはっきり言って良くはない。アロイスが急いでコリンナを診る。


「なんと! 陛下と同じだ……」


 アロイスが頭を抱える。

 コリンナは先ほどまで暖炉に火をくべたり国王の寝具を整えたりと甲斐甲斐しく動き回っていた。本当に突然体調を崩したということだ。


(何が起きているの?!)


「コリンナ! しっかりして!」


 リリアはコリンナに声を掛ける。長椅子に横たわったまま、コリンナがうっすらと目を開けた。


「コリンナ!」

「───王女……殿下、……申し訳ございません。突然、体に力が入らなくなって、……ただ、酷く、……眠……い……」


 これだけ言うのがやっとのようだった。そのまますっと眠りに入って行く。


(これほど緊迫した中で、強度の眠気に襲われるなどありえるだろうか?)


 だが、この瞬間、リリアはふと既視感を覚えた。


「──眠い?」


 握ったままの右手を口元に押し当て、まるでうわ言のように呟いたリリアは、すぐさま傍にいたアロイスの助手に強いお酒を急いで持ってくるようにお願いをする。別の侍女には廊下で待っているシャイルを呼んできてもらうよう頼んだ。慌ただしくなった寝室の様子に宰相とユーリックが慌てて控えていた居間から飛び込んで来る。その後に続くようにジェラルドも姿を見せた。


「先生! 眠り病をご存じですか?」


 リリアは、アロイスに確信を持って尋ねる。


「ね、眠り病でございますか? 存じませんが……」

「そんな……」


 翠色の瞳を大きく見開き、リリアは愕然となる。一瞬見えた頼みの綱が見えなくなる。

 だが、このまま手をこまねいている暇はなかった。この病気は時間との戦いだった。さらに厄介な事に、人から人へ伝染する。


「先生! この病気を私は知っています。この病気は伝染します。潜伏期間があって、その間は患者自身病に罹っている自覚が無く、感染を広げてしまうのです。そして、発症してしまうと、たった数日間眠り続けた後、心臓が止まってしまう恐ろしい病気なのです」


 『伝染する』と聞いて室内にいた者達は一様に慄き、騒めき始めた。


「王女殿下、我々も感染していると考えたほうが良いのでしょうか? このまま我々の心臓が………」


 宰相であるバルトルト・ヴェルフが顔を強張らせ、リリアに尋ねてきた。その表情を見れば酷く動揺していることが伺える。


「大丈夫です。感染しているかどうかは判断する方法があります。発症する前に薬を飲めば問題はありません。それに、一度罹ると二度と罹ることはないのです。対処の仕方を知っていれば怖れることはない病気です」

「では、薬があるのですね?」

「今はありませんが、作る事はできます」


 いつの間にかリリアは取り囲まれていた。みな縋るような思いでいるのだろう。発症さえしなければ、恐ろしい病気ではないのだ。

 そう、発症さえしていなければ……。


「リリア?!」


 呼ばれたシャイルが寝室の戸口に姿を現した。その姿を見た途端、リリアは安堵のあまり膝から崩れそうになる。ふらりと揺らいだリリアの体をジェラルドが素早く抱き留めた。


「あ、ありがとうございます」


 気遣うように覗き込むジェラルドへ無理に笑みを作る。


(そうだ。倒れている場合ではなかった。まだ何も解決していないのだから)


 リリアはジェラルドの腕を支えられながら、自分の足に力を入れる。今のリリアには一瞬でさえ気を抜くことなど許されない事だった。

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