第32話 混乱。
ベルンシュタイン国の東の砦は、大混乱に陥っていた。
ローラン軍と交戦中であったボルドビア軍が、突然兵をベルンシュタイン国へと向けてきたのだ。一万の兵で大挙して攻めてくるボルドビア軍を目前にし、近くの村人達を急ぎ砦の中へと避難させながら、応戦する準備を短時間で整えねばならなかった。
すでにこの地の領主であるジェラルド・アルビオン侯爵はたった三百の兵を連れ、国境へと向かっていた。時間稼ぎの足止めとはいえ、敵兵の規模を考慮すればあまりに無謀な数であった。
東の砦は長きに亘って国同士の小競り合いさえ起きたことが無く、国境の治安維持と盗賊などから民を守るために存在しているような状態だった。その為、常駐しているのはアルビオン侯爵家の私兵だけでもともと少なかったのだ。
そんな中、『眠り病』が蔓延し、まともに戦える兵の数がさらに激減していた。
その上、まるでこの機を見計らったようなボルドビアの進軍であった。ジェラルドが奇襲に割ける兵は限られている。無謀であることはジェラルド自身が一番良く理解していた。
しかし、ボルドビア軍を僅かな間でも足止めするためには、国境で迎え撃たねばならなかったのだ。領民達の避難と愛しい王女を逃す為に。
一方、ジェラルドから王女の脱出を命じられていたガルロイはいまだ砦の中にいた。
「嫌です。私はこの砦に残ります!」
いつも穏やかで優しいリリアが頑ななまでに砦から離れる事を拒んでいたのだ。彼にとっても想定外の事態であった。
「なりません! ジェラルド卿が敵を足止めしている間に、王都へ向かうように指示を受けています。ボルドビア軍がこの砦に到着するのも時間の問題でしょう。敵の規模から考えても、援軍が到着するまで、この砦がもつ保証はどこにもないのです。貴方様にもしものことがあれば、この国が、ベルンシュタイン国が、取返しのつかなくなることになるのですよ!」
「聞いて、ガルロイ! ベルンシュタイン国には国王であるお義父様がご健在なのよ。たとえ私の身に何が起きたとしても、この国にそれほど影響があるとは思えない。それよりも、今この砦から王女であるわたしが逃げることの方が、取り返しがつかなくなるわ。今、ジェラルド達が戦ってくれている。だからこそ、私はこの砦を皆と共に守りたいの」
リリアの意志は固かった。どれほど説得を試みても首を縦に振ろうとはしない。
それどころか、この混乱の中、『眠り病』の患者や、逃げてきた村人達の世話に奔走している。
「あの方が、我が国の王女様なのか?」
「精霊の乙女の生まれ変わりなのだと聞いたぞ」
「噂に負けぬ美しいお姿だが、まだ子供のようではないか……」
当初、噂でしか聞いたことがなかった王女が身分など関係なく接してくることに、砦にいる兵士や民達は戸惑いを隠せないでいた。
だが、気付けば、誰もが小柄な王女の姿を目で追っていた。不思議な事に、彼女の周りだけは戦の不穏な雰囲気が漂う砦の中で、明るく輝いて見えるのだ。
「おうじょさま」
「おうじょさま」
いつの間にか王女の後を、子供達が付いて回るようになっていた。
そして、不器用ながらも水を運んできたり、掃除をしたり、自分達にもできることを率先して手伝っている。そんな一生懸命に働く王女と子供達の姿に、大人達の心も変わり始めた。
「私にも、何か出来ることはありませんか?」
「俺にも何かさせてくれ」
守られる事は当たり前だと思っていた村人達の中から、自ら役割を担おうとする者が大勢出始めた。
これが予想外の戦力となった。
戦は剣だけで敵と戦うことだけではない。手先が器用な者は武器の手入れや矢を作り、目の良い者は見張り役に名乗り出た。
そして、足の速い者は連絡係として、砦の中を駆け回る。女達も人数が増えて大変な数となった食事作りを請け負い、手際よく配っていく。女達から食事を手渡され、不快に思う男など一人としていない。
かつてない危機にさらされているというのに、砦の中で暗い表情をしている者はどこにもいなかった。
それどころか、活気に満ち溢れていく。
「どうすれば良いのだ!」
ただ、ガルロイだけが苦悩し続けていた。
「親父、まだ悩んでたの? 俺は、姫様の意志に従うよ」
馬にやる飼い葉の入った樽を抱えながらルイが断言する。言葉のとおり、ルイは子供達にまざって喜々としてリリアの手伝いをしていた。
確かに、今の砦の状態を見る限り、ボルドビア軍の攻撃を受けたとしても、何とか持ちこたえることができるのではないかと思えた。
だが、それは持ちこたえる時間が少し伸びるだけのことであって、あの大軍を追い払えるというわけではない。
ただひたすら砦の中で籠っているだけでは、いずれ門を打ち破られ、この砦の中は地獄と化することは明白であった。
(そうなる前に、何としてでも姫様だけはシュティル陛下の元へ逃がさねば………)
手段を選んでいる暇はなかった。
(姫様にどれほど責められることになってもかまわない。騙してでも、この砦から連れ出さす)
覚悟を決めたガルロイの耳に最悪の知らせが飛び込んできた。
「大変だ! ジェラルド様が負傷された!」
「ボルドビア軍が攻めて来るぞ!」
二つの知らせは砦の中を一瞬にして駆け巡り、人々の心をどん底に突き落としたのだった。
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