第44話 激流。
時間は少し遡る。
リリアが橋を渡り始めたちょうどその頃、クロウは助けた男達から教えてもらった近道を通り、ベルンシュタイン国との国境に近い崖の上へと出ていた。
崖の上からはかなり遠くまで見渡すことができた。堅固な佇まいのベルンシュタイン国の東の砦も目前に聳え立っている。
クロウの視線がある一点で止まった。
ベルンシュタイン国とローラン国とを分断する渓谷に架かる橋を挟み、一万はいると思われるボルドビア軍とベルンシュタイン国の騎馬が百騎ほど対峙していたのだ。
クロウの涼やかな目が大きく見開かれる。
「! リリア……」
クロウの唇から一人の少女の名が零れた。
ただ会いたいと渇望していた愛しい者の姿がその橋の上にあったのだ。どれほど遠くであっても彼女の姿を見間違えるはずなどない。
だが、クロウの端整な顔が喜びに輝くことはなかった。眉間に深い皺を寄せ、鋭い目でリリアの姿を追う。
(何をしている?)
嫌な胸騒ぎがクロウを襲う。
なぜか、リリアがたった一人でボルドビア軍の方へと歩いているのだ。それもひどくゆっくりとした足取りで、どこか怪我を負っているのかと肝を冷やす。
だが、どうやら理由は別にあるようだった。
一方のボルドビア側からは数人のベルンシュタイン国の甲冑姿の兵士達が、お互いを支え合いながら仲間達の元へと向かっていた。こちらは全員負傷しているように見える。その様子をベルンシュタイン側の騎士達はただじっと見守っているだけだ。
その光景はあまりに異様だった。
「──まさか、人質の交換……?」
一つの可能性に気付いた瞬間、クロウの体中の血が逆流する。
(人質なんかにするために、リリアを残して行ったんじゃない!)
怒りのあまり、叫び出しそうになった。
クロウがベルンシュタイン国にリリアを残し、たった一人で旅立ったのは彼女の安全を思ってのことだった。
荒れ狂う感情を無理やり抑え込み、すぐさまリリアの元へ駆けつけようと素早くあたりに視線を巡らす。ざっと見た限り、断崖絶壁の上に立つクロウには、選択肢は一つしかなかった。彼女の元へ行くには、この崖を迂回せねばならなかった。
(迂回していては間に合わない!)
クロウは胸が焦げ付くような焦りを感じながら、何としてもシェーンに乗ったまま下りていけそうな場所を必死で探す。見誤ればシェーン諸共崖の下へ転落し、リリアを助けることなど到底できない。
と、その時、どこからともなく一匹の美しい牡鹿がクロウの前に姿を現した。立派な角を持ち、すべてを見透かしているような大きく澄んだ黒い瞳がクロウをじっと見つめている。
「!」
ふいに牡鹿が身を翻し、崖下に向かって跳んだ。クロウは急ぎ崖下を覗き込む。牡鹿は何事もなかったかのように、悠然と切り立った崖の側面に突き出た岩の上に立っていた。クロウを仰ぎ見ると、再び崖を器用に下り始めた。時折、振り返るとクロウをじっと見つめる。その姿は、まるでついて来いと言っているように思えた。
「シェーン! あの鹿の後を追ってくれ!」
クロウを乗せたまま、シェーンは鹿の後を追う。はやる心を押えながらなんとか難所を過ぎた時にはすでに牡鹿の姿はなかった。
「! ち、違う! 違うっ!! あれは兄上ではない!!!」
風に乗って聞こえてきた若い男の叫び声に、まるで弾かれたようにクロウが顔を向ける。
「罠だ! 王女殿下、お逃げください!」
「突撃! 殿下をお救いしろ!」
両軍が一気に動いた。それと同時に、負傷していたはずのベルンシュタインの兵士達が駆け出す。
そして、あろうことかリリアに襲いかかった。リリアが悲鳴を上げている。すぐに両軍が橋の上で激しくぶつかり合い、あっというまにリリアの姿をクロウは見失ってしまった。
「リリアーッ!」
クロウはシェーンを駆けさせた。
「ひっっ! 黒髪の男だ!」
切り立った崖を背に陣を構えていたボルドビア軍は、安全であるはずの背後から突然現れたクロウの姿に度肝を抜かれた。数人の兵士達が上げた悲鳴に、まるで恐怖が伝染していくかのように他の兵士達までもが恐慌状態に陥り逃げ出し始めた。
一瞬のうちに、ボルドビア軍の陣形が崩れだす。
「どけっ!」
あらん限りの声を上げ、クロウは長剣を抜き放つ。黒い剣先が閃光を放ち、眩い緑色の光となって天へとまっすぐに伸びていく。その光にボルドビアの兵士達はさらに慄いた。その光輝く剣を掲げ、クロウはたった一人で一万のボルドビア軍の背後へ突っ込んで行った。
「逃げるな! 逃げてはならん!」
逃げようとするボルドビア兵士達に向かって、指揮官らしい男が声を荒げている。
だが、逃げだす兵士の数はますます増えていくばかりだ。
ぎゃあっ!
突然、逃げようとしていた兵士の一人が、断末魔の叫びをあげ絶命した。その胸に剣を突き立てていたのは、驚くことにボルドビア軍の指揮官の男だった。その場が一瞬にして凍り付く。
「逃げてはならん! 逃げようとする者は、この者と同じ末路を辿ることになるのだぞっ!」
ボルドビアの指揮官が取った行動は、ボルドビア兵達をさらに更なる恐怖の渦へと叩き込んだ。
「リリアッ!」
必死の思いでリリアの元へ向かうクロウに、逃げることもできなくなったボルドビア兵達が死に物狂いで襲い掛かってくる。クロウは威嚇するように掲げていた剣を大きく振った。すると、まるで薙ぎ払われたかのようにボルドビアの兵達がバタバタと倒れていく。
黒剣は精霊が造ったとされるだけあって、不思議な力を持っていた。不思議な光を放つだけでなく、この剣の波動に当たった者、また剣を交えた者は皆一様にまるで雷にでも打たれたかのように体を痺れさせ、昏倒していくのだ。
「! クロウ?! クローッ!!」
阿鼻叫喚の中、自分の名を何度も呼ぶリリアの声をクロウの耳はしっかりととらえた。
「リリア!」
クロウは血眼になってリリアの声がした場所へ向かう。恐怖に駆られたボルドビアの兵達はクロウから必死で逃げようとし、クロウの目の前はまるで道ができるように開けていく。クロウはそのまま吸い込まれるように両軍がぶつかり合っている橋の上へとボルドビアの兵士達を蹴散らしながら駆け込んでいく。その鋭い目に兵士の肩に担がれたリリアの姿が映る。
「リリアッ!」
クロウの呼び声にリリアが気付いた。翡翠色の瞳が喜びに輝く。
「クロウッ!」
リリアがクロウに向かって必死で手を伸ばしてくる。
「リリアッ!」
クロウの胸が震えた。クロウもリリアに向かって手を伸ばす。
だが、リリアを担いでいた男がクロウの姿を目にした途端、顔を恐怖に引きつらし、口からは悲鳴が迸る。
「!」
あともう少しでリリアに手が届くと思えた刹那、リリアを抱えていた男がその小さな体を持ち上げ、次の瞬間には、リリアの姿が欄干の向こうへと消えていく。
「リリアーッ!」
走っているシェーンの背の上に立ち上がったクロウは、剣を鞘に納め、まとっていたマントを脱ぎ棄てると、渓谷を流れる川に向かって落ちて行くリリアの後を追って欄干を蹴った。
水面から受ける衝撃のあと、刺すような水の冷たさと激しい流れがクロウの体の動きを止める。
(! 何という冷たさだ! 一亥も早くリリアを救い出さねば、溺れなくとも体がもたない!)
クロウは水面に顔を出すと、激しい流れに何度も呑み込まれながらもリリアの姿を探した。
だが、どうしてもあの愛おしい姿を見つけ出すことができない。
(まさか……、水中へ沈んでしまったのか?)
クロウの脳裏を恐ろしい考えが過ぎる。と、その時、大きくうねる波の合間を淡く輝く緑色の光が見えた。クロウは導かれるようにその光に向かって泳ぎだす。近づくにつれ、水面に見え隠れするリリアの金色の髪をクロウの目が捉えた。
「リリアッ!」
水の流れをうまく利用しながらリリアのそばへ泳ぎついたクロウは万感の思いを胸に、力強い腕でその華奢な体を引き寄せたのだった。
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