第43話 黒髪の騎士。
国境の橋を渡り始め、リリアは空を見上げた。今にも雪が降り出しそうな暗灰色の雲が覆っている。まるでリリアの心の中を映し出しているかのようだった。
リリアはできる限りゆっくりと歩く。少しでも時間を稼ぐことが今リリアに出来る唯一の事だったからだ。
橋の上を吹く風は酷く冷たい。体がどうしても小刻みに震えてしまう。それは寒さからなのか、それとも恐れからなのか分からなかった。
(ううん、きっとその両方ね)
対岸からは血に濡れた甲冑を着た捕虜の兵士達が足を引きずりながらこちらに向かってくる。その姿を見れば、これで良かったのだと思えた。
無意識に俯きそうになる度、リリアは毅然と顔を上げる。ボルドビアの兵達はリリアをベルンシュタイン国の王女として見ているのだ。
(決して弱気なところを見せてはいけない)
あともう少し歩けば橋の中央に辿り着いてしまう。そう思い、ふと前に向けていた視線を捕虜の兵士へと向けたその瞬間、その内の一人が僅かに顔を上げ、ちらりとリリアを見た。
「! ち、違う! 違う違う!! あれは兄上ではない!!!」
背後からまるで悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。
「罠だ! 王女殿下、お逃げください!」
はっとしたリリアはすぐさま身を翻し、地を蹴った。
だが、すぐに右腕を痛みが伴うほどの力で掴まれ、引き倒される。
「きゃあああっ!」
リリアの唇から悲鳴が迸る。全身に強い衝撃と痛みが走って息が詰まった。それでもリリアは戻ろうと這いずりながら必死で自分の名前を呼ぶガルロイ達の方へと手を伸ばしもがく。
だが、さらに背中を強い力で押さえつけられ、苦痛と恐怖で涙が溢れだす。滲む視界に捕虜に扮していたボルドビアの兵と切り結びながらガルロイやルイ達がリリアを助けようと必死で戦っている姿が映った。
しかし、それもすぐに遠く霞んで見えなくなっていく。遠のいていく意識の中で、リリアの名前を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がした。
「リリアーッ!」
再び聞こえてきた心を揺さぶるような声が、途切れかけていたリリアの意識を繋ぎとめる。
だが、意識を取り戻したリリアはすぐに蒼ざめた。いつのまにか誰かの肩に担がれていたのだ。手荒に物のように扱われ、肺が圧迫されうまく息が出来ない。
だが、それ以上にリリアを怯えさせたのは、自分を取り囲む状況の異常さだった。彼女の周りにはボルドビアの兵士達がひしめき合っていた。罵声や怒声、さらには悲鳴までもが辺りを包んでいる。馬の嘶きに交じって金属がぶつかる音も聞こえる。
「どけっ! 道を開けろっ! くそっ!」
リリアを担いでいる男が焦りからかイラついた声で喚いていた。
だが、道が開ひらかれることはなく、それどこらかどんどん押されて、とうとう橋の欄干のそばまで押し流されていた。
「あっ! ……あれは?」
対岸のおびただしい数のボルドビア兵達の頭上を、一本の緑色に輝く閃光が天に向かってまっすぐに伸びていく。さらにその方向にいるボルドビアの兵士達が逃げようとこちらに向かって来ようとしていた。橋の上は人で溢れ返り、逃げ場を求めて欄干の上へと登りはじめた。
だがそれはさらなる悲劇の始まりだった。黒い塊が崩れ落ちて行くように悲鳴を上げながら欄干の上にいた者達が次々に川へ落下していく。橋の下はゴウゴウと音をたてながら激流が流れていた。
「リリアーッ!」
阿鼻叫喚の大混乱の中、リリアの耳は自分の名を呼ぶ力強い声をとらえた。
「! クロウ?! クローウッ!!」
リリアは確信を持ってその者の名を何度も呼ぶ。
「リリア!」
突然、リリアの目の前の人垣が割れ、黒い毛並みの美しい馬に乗った一人の青年が姿を現した。その者の髪の色も闇夜を切り抜いたような漆黒。手には緑色の光を帯びた剣を握っている。夢にまで見た愛しい人の姿がそこにあった。
「!」
リリアの目に溢れるのは歓喜の涙だ。名前を呼びたいのに、まるで喉を塞がれたように声が出ない。ただ会いたいと願い続けていた人。
リリアは震える指先を精一杯伸ばす。
(クロウが目の前にいる!)
このような状況であるというのに、リリアの胸が喜びに震えていた。
(夢じゃないのよね?)
頬を熱いものが伝い流れ落ちていく。
『ひいっっ』と、恐怖に慄く悲鳴がリリアを担ぎあげていた男の歯の間から漏れた。その瞬間、リリアの体がふわりと浮く。男がリリアを川へ投げ落としたのだ。
「あっ……」
それは一瞬の出来事だった。
だが、リリアにとってはすべてが恐ろしいほどゆっくりと見えた。リリアに向かって力いっぱい手を伸ばしていたクロウの黒曜石のような瞳が驚愕に見開かれていく。クロウはリリアの目前にまで来ていた。
しかし、リリアの伸ばした指先はクロウのそれに触れることさえ叶わぬまま、リリアの小さな体は濁流の中に一瞬で飲み込まれてしまった。強い衝撃が全身に走り、がぼっと肺から空気が吐き出された。恐怖と息苦しさに顔が歪む。さらに身を切られるような水の冷たさがリリアを襲う。
小さな体は激流に木の葉のように翻弄され、どちらが上なのかさえ分からなくなっていた。手足を動かそうとしても、身に纏っている厚手の服がそれを拒む。どんなに足搔いても水面に顔を出すことができない。
(助けて! く、苦しい──)
恐慌状態に陥り、開いた口の中へと水が容赦なく流れ込んでくる。
ガボッガボッガボッ……
リリアの意識は突然途絶えてしまった。
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