第45話 雪。
クロウは濁流の中を気を失っているリリアの体を右腕で抱きかかえながら岸へと向かう。冷たい水がクロウの体力と指先の感覚を容赦なく奪っていく。ほんの一瞬でも気を抜けば、あっという間に激しい流にリリアを奪われてしまうだろう。
気力だけでなんとか岸へたどり着いたクロウは、肩で息をしながらぐったりとしたリリアの体を冷たい水の中からすくい上げる。すでに手足の感覚はなくなっていた。残りの力を振り絞り、リリアを乾いた岩の上に横たえさせる。青白いリリアの頬に手を添え、飲んだ水を吐かせようとして、クロウは息を飲む。リリアが息をしていないのだ。
「リリアッ!」
切羽詰まった顔で、急ぎ彼女の胸元に耳を当てる。
微かではあるが、弱々しく打つ鼓動がリリアはまだ生きていると告げていた。
「リリア!」
クロウはリリアの体を掻き抱き、狂わんばかりに彼女の名を叫んだ。
だが、無情にも腕の中の小さな体からは僅かな反応も返ってこない。血の気のない青白い顔を見れば、焦りだけが募っていく。
これほど近くにいるというのに彼女の目は固く閉ざされたまま、心を甘く揺さぶる翠緑色の瞳がクロウの姿を映すことはなかった。クロウはリリアの冷え切った柔らかな頬を両手で包み、必死で彼女の名を呼び続ける。
(どうすれば……)
絶望がクロウを捉えようとその触手を伸ばしてくる。それを振り払うように頭を振れば、ふいに脳裏をかすめたのは、横たわる子供に息を吹き込むリリアの姿だった。クロウは救いを求めるように記憶の中のリリアの姿を追う。
「死なせはしない!」
再び岩の上にリリアの体を横たえさせ、クロウは片手で彼女の顎を少し持ち上げた。わずかに開いたリリアの唇は紫色に変わってしまっている。その唇にクロウは自分のそれを重ねた。その冷たさに胸が締め付けられる。
逸る気持ちを押えながら、クロウはリリアの口へ強く息を吹き込む。
ゴホッ、ゴホゴホゴホッ──
どれほどの時が経ったのかはわからない。
突然リリアの胸がせり上がり、飲んだ水が吐き出された。その途端、リリアは酷く咳き込む。呼吸が戻った証だ。
「リリア……」
掠れた声で彼女の名を呼べば、どこかぼんやりした表情でリリアがクロウを見た。
「……ク……ロウ……?」
花の蕾のような唇から自分の名前が零れる。
クロウはたまらずリリアの華奢な体を強く抱き締めていた。
「リリア、リリア、リリア……」
会いたかった。
熱い想いが体の奥底から湧き上がってくる。
だが、胸が焦げるように熱く、まるでうわ言にように愛しい名を呼び続けることしかできない。存在を確かめるようにリリアの身体に回した腕にさらに力が入る。
「!」
突然、クロウはびくりと体を揺らした。目を大きく見開いてリリアを見つめる。震える小さく白い手が、自分の頬へ触れていた。堪らなくなったクロウはその手を取ると、自分の額に押し当てる。
大切な者を失ってしまうかもしれないという恐怖は、己が死ぬかもしれないと感じる以上に恐ろしいものだった。
リリアを胸に抱きしめたままクロウは空を仰ぐ。
「森の王よ! 精霊達よ! 感謝する!」
まるで叫ぶように、大いなる者達に感謝の気持ちを伝える。言わずにはおれなかったのだ。ここに至るまで、何度も彼らの存在を感じる瞬間があった。リリアをこの腕に取り戻すことができたのも、おそらく彼らの救いがあってのことだ。
再びクロウは腕の中の愛しい少女の顔を真っすぐに見つめる。
「リリア」
美しく神秘的な光を宿す瞳が揺れていた。その美しい瞳から溢れ出た澄んだ雫が頬を伝うと、クロウは指先でそっと拭う。
「……おかえりなさい」
その声はとても小さく、ともすれば川の音に掻き消されてしまうほどだった。
だが、クロウが聞き逃すことはなかった。
胸に強い痛みが走る。この言葉にどれほどのリリアの思いが込められているか、クロウは痛感する。
「待っていてくれたのか?」
リリアがこくりと小さく頷く。
目頭が熱くなる。何も言わず去ってしまったクロウの事を、リリアは待っていてくれたのだ。
言葉もなくただ見つめ合う。リリアは安心したのか、彼女の澄んだ瞳が再び長い睫毛の向こうへと消えていく。
「リリア……?」
不安を隠せない声でリリアの名前を呼ぶ。
けれど、彼女からの返答は無い。慌てて呼吸を確認し、眠っているのだと分かり、安堵する。
その時、ふと視界の端に白いもの過ぎった。
「!」
弾かれたように顔を上げたクロウの黒い瞳に、はらはらと舞うように天から降ってくる白く儚げなものが映る。
「雪……」
とうとう雪が降り始めたのだ。
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