第37話 補給部隊。
ベルンシュタイン国とローラン国との国境へと通ずる崖沿いの狭い細い道を、ボルドビア軍の補給部隊が隊列を組んで進んでいた。武装した二百人ほどの兵士達が、物資を運ぶ複数の荷車の前と後ろを分かれて守っている。
その様子を高くそびえる岩場の上から見下ろしている男がいた。谷から吹き上げて来る風が男の黒髪を弄び、美しく整った顔をまるで撫でるように吹き抜けていく。
一人静かに佇む男の黒く澄んだ瞳からは、何の感情も読み取ることは出来なかった。ひたっと据えられた男の鋭い眼差しは隊列の先頭へ向けられている。その視線の先に居た者は、ボルドビア軍の補給部隊を任されていた部隊長だった。
部隊長は伝令から受け取った書面に目を通すと、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん! 何が早く来いだ! こちらの苦労を知ろうともせず突っ走っておいて、ぬけぬけとそんな伝令を飛ばしてくるとは! 何と勝手な! 異国で物資の調達がどれほど大変な事かっ!」
手にしていた書簡を憎々し気にぐしゃりと握り潰し、部隊長は吐き捨てる。
内容は、ベルンシュタイン国の東の砦に到着した部隊から物資の到着を急かすものだったのだ。前線の部隊は、攻め落としたローラン国の砦から武器を持ち出すだけで良かった。
だが、補給部隊はそう簡単にはいかなかった。ローラン国の砦で出撃の時期を待たねばならなかった為に食料などはすでに底をついていた。その為、食料や必要な物資は現地でかき集めねばならなくなったのだ。出撃が決まった時点で補給部隊はすぐに異国の地ローラン国で手あたり次第、近くの村や町を襲撃した。そんな中、伝説の剣があるとの噂がある町を襲った時に、突然現れたたった一人の男によって、物資の調達は阻まれ、さらには部隊の半分の兵を失うこととなってしまったのだ。
部隊長はその男とは直接会うことはなかったが、剣を交えた兵士達は二度と剣を持つことが出来なくなっていた。
さらに、剣を奪うため、聖殿へ行かせた兵達はほとんどの者が正気を失っており、失踪する兵まで出る始末だ。
その男と会った者達は皆口を揃えて言うのだ。
『黒髪の男』と。
ふいに隊の後方が騒がしくなった。
「ん? 何だ⁈ 何があったのだ?」
部隊長の顔に緊張が走る。急いで振り返るが、道に張り出した大きな岩が邪魔をして、後方の様子がまったくつかめない。
「くそっ! ここからでは何も見えん!」
急ぎ馬首を巡らそうとしたその時、血相を変えた兵達が雪崩のように岩陰から溢れ出てくる。その中の一人が大声で叫んだ。
「あの男だ! 黒髪の男が現れたぞ!」
『黒髪の男』と聞き、兵士達が一斉に浮足立つ。
うわああああああっ!
さらに、悲鳴が上がり、大地を揺るがすような地響きに似た大きな音が辺りに鳴り響き渡った。一瞬で、辺りは騒然となった。何が起こっているのか分からないだけに、兵士達の恐怖心はさらに膨らむ。一人の兵士が逃げ出すと、他の兵士達までもが我先にと逃げ出し始めた。部隊長は慌てて、近くの兵の首根っこを掴み叫ぶ。
「逃げるなっ!」
だが、どんなに部隊長が怒鳴り声をあげても、混乱が収まる気配は無かった。それどころか、部隊長の目が届かない隊の後方では、突如として現れた黒髪の男の襲撃で、すでに隊としての秩序は崩壊してしまっていた。地響きのように聞こえていた音は、物資を積んだ荷車が次々と崖下へと落ちて行く音だったのだ。その荷車を引いていた馬達は何者かが繋いでいる綱を断ち切っており、自由になった馬は逃げ惑う兵達に向かって突進していく。大きな音に冷静さを失った馬達は狂ったように兵達を蹴散らしながら暴れ回っている。その場は異常な事態に陥っていた。
いつしか暴れ回っていた馬達も逃げ去り、すべての荷車が崖下へ消えた頃には、黒髪の男の姿もすでになかった。幸運にも命拾いした者達は、凄惨な現場にただ茫然となるだけであった。
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