第9話 王の椅子。

 泣き疲れ、リリアは再び寝台で横たわる。


「何か飲むものをもらってくるわね?」


 シャイルがリリアに声を掛ける。優しい声に目を閉じたまま小さく頷けば、彼がそっと部屋を出て行く気配がした。


「リリア様は、大丈夫でございますか?」

「……はい。もう、熱は下がってきています。冷たい水を飲ませたいのですが、用意していただけますか?」

「はい。すぐにご用意いたします」


 寝室の扉の外で、シャイルが誰かと話しをしている。この声はマロウとシンシアだ。ひどく心配したその声に、二人にもかなり心配を掛けてしまったのだと悟る。

 しばらくして、マロウが部屋へ入って来た。


「さあ、よく冷えたお水でございますよ」


 起き上がろうとするリリアの体をシャイルが支え、マロウ夫人が零れないように注意しながら持ってきた器をリリアへ差し出す。


「ありがとうございます。マロウ夫人」


 お礼を言って、リリアはマロウから器を受け取った。唇を付け、器を傾ける。ゆっくりと流れ込んで来る冷たい水が、乾いた喉を通り抜け、体の奥へと染み込んで行く。冷えた水がいろんなものを洗い流してくれるような心地よい感覚に、少しだが気持ちが落ち着いていくように感じられた。


「美味しかったです。ありがとうございます。あの、叔父、……国王陛下にお会いしたいのですが、会わせていただけませんか?」


 リリアは思い切ってマロウへお願いをする。

 あまりに色んなことが一気にリリアの身の上に押し寄せてきて、ひどく混乱していたようだ。自分がどうしたいのか、まだ叔父様に何も言っていないことに今更ながら気付いたのだ。

 クロウもシャイルも城に留まることが出来ないのなら、リリアがこの城から出ればいいのだ。

 父にどこか面影が重なるシュティルにお別れを言うのは、正直寂しく感じている。

だが、このままここに留まれば、自分を見失ってしまう。本当はどうすればいいのかなんてまったく分からない。でも、少しでも早くリリアの気持ちを叔父様に伝えなくてはならないと思ったのだ。

 マロウ夫人は少し驚いた表情を見せたが、すぐに頷いてくれた。


「陛下はとても心配しておられました。少しでもリリア様のお元気なお姿をお見せになられたら、きっとお喜びになられるでしょう。ですが、今はちょうど、謁見のお時間なのです。すぐにお会いすることはできませんが、シンシアにリリア様がお目覚めになられたとユーリック殿へお伝えしに行かせておりますので、きっと少しお待ちいただければ、お会いできるように取り計らってくださるはずです」

「そうだったのですね。ありがとうございます。……よろしくお願いします」


 そう言って、リリアは頭を下げた。


「まあまあ、当然の事をしただけですよ。どうか頭をお上げください」


 マロウ慌ててリリアの手を取った。その手はとても温かかった。

 しばらくしてシンシアが戻ってくると、マロウはシンシアと共にリリアの身支度を整えてくれた。

 再び母の衣装に身を包み、緊張したまま待って居ると、ほどなくユーリックがリリアを迎えに現れた。リリアはまだ少しふらつく体を、シャイルに手をひかれるように歩きながらシュティルの待つ場所へと向かう。案内された部屋は、父と母の絵が飾られていたところとは違った。


「陛下の命で、お連れいたしました」


 ユーリックが扉の前の衛兵へ声を掛ける。その扉は今までに見たどんなものよりも大きく重厚で、警護に当たっている衛兵達によって左右にゆっくりと開かれて行く。

 目の前に広がる光景は、部屋と言うよりも空間といったほうが合うだろう。2階部分まで吹き抜けになっており、部屋と呼ぶにはあまりに広かった。

 円柱の柱が等間隔で左右に並び、大理石でできた床の上には、赤い絨毯が入り口から一本の道のように真っ直ぐに部屋の奥へと伸びている。

 その先には数段高くなった場所があり、その壇上には、赤を基調とし、金糸の豪華な刺繍が施された美しい垂れ幕かかっていた。

 そして、その前には眩い金で装飾された立派な椅子に座る叔父シュティルの姿があった。

 彼はリリアの姿を目にすると、驚いたように立ち上がった。


「ここは、謁見の間です。リリア様だけ、どうぞ中へお進みください」


 ユーリックの声で、シャイルがリリアの手をそっと放した。リリアははっとしてシャイルを見つめた。


「大丈夫。私はここで待っているから。行ってらっしゃい」


 リリアは意を決したようにひとつ頷くと、シュティルに向かって歩き出した。その背後で扉がゆっくりと閉っていく。思わずといったようにシャイルの手が小さな背に向かって伸ばされた。その事をリリアは知りようもなかった。

 その指の先で、大きな扉がゆっくりと閉じられた。それはまるでシャイルとリリアの繋がりを断ち切るかのようでもあった。

 熱を感じないひんやりとした広い空間に、リリアはシュティルとたった二人だけになっていた。 

 慣れない靴に足元もおぼつかない様子で歩いて来るリリアの姿に、シュティルが急いで駆け寄って来た。シュティルがリリアの体を支える。心配そうに見下ろす叔父の顔をリリアは見上げた。


「……お願いです。村へ、……私は、おじいさんとシャイルと一緒に暮らしていた村へ帰りたいです。どうか、……村へ帰してください」


 零れ出た言葉と共に、翠緑色の瞳に涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちていく。その姿を見つめる澄んだ青い瞳が陰り、大きな手がリリアの涙をそっと拭う。


「気持ちは、痛いほど分かるよ。……だが、もう元の生活には戻ることはできない」

「……そ、そんな……どうして──」


 シュティルは苦みを帯びた声でそう告げると、呆然としているリリアの手をそっと取り、歩き出した。

そして、先ほどまで自分が座っていた荘厳な雰囲気に満ちた椅子にリリアを導き、座るように促す。リリアは勧められるまま椅子に座ると、シュティルは彼女の足元に片膝を付いた。

 リリアの両手を優しく包み込むシュティルの手はとても大きく感じられた。

 だが、慈愛に満ちた瞳で告げられた言葉にリリアは驚愕に目を大きく見開く。


「ここが、君の本当に帰ってくる場所だよ。私の大切な女王陛下」

「や、止めてください! 私が女王だなんて! 冗談は、止めてください!」


 リリアは立ち上がろうとしたのだが、優しく宥められ、再び椅子に腰を下ろした。


「私は、冗談は言わないよ。リリティシア、どうか落ち着いて聞いてほしい」


 真剣な眼差しを向けられ、リリアはただ聞くことしかできなかった。


「君は、私の兄の子だ。間違いない。誓ってもいい。君はエレーネに本当によく似ている。……その衣装はマロウ夫人が選んだのかな?」

「はい……」

「開いた扉の向こうに立つ君の姿を見た時、一瞬エレーネがそこに立っているのかと思ったよ」

「エレーネ……」

「そう。君の母だ。そして、君の父の名前はアルフレッド。先代のこの国の王だ。だから本当は、この椅子に座るのは私ではなく、君だよ。……君はアルフレッド国王の後を継ぎ、女王として生きなければならない」

「そ、そんな……ちが……」


 すぐに否定しようとしのだが、喉の奥が塞がれたようになって言葉にならない。むき出しの心のまま首を左右に振れば、大粒の涙が窓から差し込む光を受け、煌めきながら冷たい床へと落ちていく。

 だが、シュティルはそんなリリアの姿を我慢強く、まるで包み込むように見つめ続けていた。


「リリア、私は君にとても酷な話をしているのは重々承知しているよ。君が女王になることが、君の幸せだとも思ってはいない。だがね、これは君に課せられた宿命なのだと受け止めてほしい。どんなに君がこのしがらみから逃れようとしても、その美しい翠緑色の瞳が君を搦めとってしまうだろう。もう君が望むような暮らしは出来ないのだよ。それにこれからは、君が望む望まないに関わらず、君の言動一つで国内外を問わず、戦が起こりうることだってあるのだ」

「わ、私のせいで、……戦が? どうして──」


 喘ぐようにシュティルを見つめ、がたがたと震え出したリリアの華奢な肩をこの国の王はそっと両手で包み、慈愛に満ちた表情を向けた。


「……私は、君を守りたい。そして、この国をも守りたいのだ」


 そして、『戦になど、私が絶対にさせない』と、まるで誓うように囁くと、シュティルは抗うように表情を明るいものに変えた。


「……実は、君にお願いがあるのだ。私の娘になってはくれないだろうか?」

「……娘?」

「そう。私には子供はおろか、妃もいないからね。君が私の娘になってくれるのなら、これほど喜ばしい事は無い。これまで、君の父と母が命を懸けて守ってきたこの国を、今度は私と共に守ってくれないかい? そして、私の跡を継ぎ、女王としてこの国を導いてほしい。これが、私の希望であり、願いだよ」


 シュティルは今すぐに女王になれと言っているのではなかった。おそらく、リリアに時間を与えてくれているのだ。

 だが、もうどんなに元の生活に戻りたいと願っても、許されることではないのだとリリアは悟った。

 翡翠色の瞳から再び大粒の涙がはらはらと零れ落ちる。

 そして、ただ小さく頷いたのだった。

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