第36話 ネットカフェの個室

 知らない内に寝落ちしていたタクミは、泣きすぎて痛くなった目をこすり、一つため息を吐いた。

 空気が冷たくなっており、大きなくしゃみが出てしまう。


 スマホをチェックすると夜の八時前だった。

 ジンからの連絡は一切ない。


 このマンションから立ち去るべきだと思った。

 玄関を施錠した後、ポストに鍵を入れておけば問題ないだろう。


 これ以上、恋心を隠せる自信がない。

 いつか暴走して迷惑をかけるかもしれない。


 ジンから拒絶されるくらいなら、タクミが消えた方がマシという判断だ。


 身の振り方については白紙である。

 一晩寝てゆっくり考えたい。


 幸いなことに『アオにつづる』は原作に忠実なコミカライズだ。

 ストーリーを一から練る負担がないから、完結まで描くのはゾンビ状態のタクミでも可能だろう。

 漫画家としてペンを折るのは話を完結させた後でいい。


 この作品に出会えて良かったと心底から思う。

 せめて作品の主人公にはハッピーエンドをプレゼントしてあげたい。


 私物をまとめるとダンボール一箱に収まった。

 季節が一周しなかったので衣類が少ないのだ。


 財布の中からお札を全部取り出す。

 簡単な手紙を書いて、一緒に封筒へ入れておいた。


 鞄の底には映画の前売チケットが眠っていた。

 本当ならジンと一緒に観たかったBL作品。

 もう用済みだろう。


 断腸の思いでゴミ箱へ捨てておいた。

 その上から要らないレシートを被せた。


 立ち去る前に家を掃除することにした。

 トイレ、風呂場、キッチンを入念に洗っておく。

 電子レンジの中と冷蔵庫の中も忘れない。


 一個一個の汚れを落とすたび、ジンとの思い出がぶり返してきて、針で刺されたみたいに心が痛んだ。


 やっぱりジンに嫌われたくない。

 こんな姿を見せられない。


 顔を合わせずに去るなんて、社会人失格という自覚はあるが、拒絶される痛みを思うと仕方なかった。


 時刻が九時半になった。

 ジンから連絡がないのを確かめて、マンションにそっと鍵をかける。


 エレベーターのボタンを押すと、ノンストップで籠が上がってきた。


 誰かが乗っていたので脇にどこうとしたら、相手はまさかのジンだった。

 二人の目がしっかりとぶつかる。


「どうした、天野? ダンボール箱なんか抱えて……」


 その言葉を振り切って回れ右をした。

 非常階段のドアを開け、全力ダッシュで降りていく。


 勢い余ったタクミは踊り場のところで顔から壁にぶつかった。


 口の中に酸っぱい血の味が広がる。

 それでも走るペースを落とさなかった。


 ポストにマンションの鍵を投函する。

 コツンと乾いた音が響いた。


 これでいい、二度と戻らない、と繰り返し自分に言い聞かせる。


 スマホが何度も揺れた。

 最初は電話、続いてメッセージ。


 相手はジンに決まっている。

 しばらく無視すると大人しくなったが、五分くらいするとまた揺れ出した。


 駅のホームで待っていた電車に飛び乗った。

 ダンボール箱を抱えたタクミは明らかに異質だが、気にする乗客は一人もいない。


 土地勘のあるところへ行きたくて、かつて住んでいた街で降りた。


 焼けたアパートがあった場所へ向かう。

 タクミが大学時代から暮らしてきた物件は、跡形もなくなっており、瓦礫の撤去も終わっていた。


 きっと新しいマンションが建つのだろう。

 過去が風化していくみたいで、失恋とは違った寂しさが込み上げてくる。


 またスマホが揺れる。

 画面に見えるのは『神室さん』の四文字。


 この期に及んで嬉しいと思ってしまう。

 もう一度ジンの声が聞きたいと願ってしまう。

 ディスプレイに涙が落ちてきて流星みたいに弾けた。


 そこから先の行動はあまり覚えていない。


 気づけばネットカフェの個室に入っていた。

 会員カードを捨てずに保持しておいたのが思いがけないタイミングで役立った。

 新規のカードを作ろうにも今のタクミには肝心の住所がない。


 真っ先に無料のシャワーを浴びた。

 少しは気分が楽になるかと思ったが、そんなことは微塵もなく、体の芯は冷たいままだ。


 漫画コーナーを一周してみる。

 以前はあれほど好きだった漫画が今は苦痛の対象でしかない。


 温かいコーヒーを一杯、紙コップに淹れて部屋まで持っていき、たっぷりと時間をかけて飲んだ。


 これで二度目の絶望だ。

 奇跡は一度きりだろうから、今度こそ人生詰んだかもしれない。


 なんでジンを好きになってしまったのか。

 漫画のモチベーションにしてしまったのか。


 とんでもない過ちを犯してしまった。

 禁断の果実に手を出したのだと、崖っぷちに立たされてから気づいた。


 今すぐ謝れば許してくれるかもしれない。

 けれども問題が解決するわけじゃないから、苦痛を先送りするだけだろう。


 バッテリー残量が少なくなったスマホを見る。

 ジンから連絡が途絶えて三十分が過ぎていた。


 普段のジンならお風呂に入っている時間だなと思った瞬間、涙腺の奥が熱くなる。

 もしかしたら水無月と楽しく電話しているかもしれないと考えたら涙が落ちてきた。


 照明を落としたネットカフェの個室は本当に真っ暗で、光の届かない海底に独りぼっちでいる気分にさせられた。

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