第12話 ラブホテルにあるやつ

「ここのお家賃って、月々おいくら万円するのでしょうか?」

「賃貸じゃないぞ。分譲マンションだからな」

「あ、なるほど」


 エントランスの床が大理石になっている。

 お上品なマダムが綿菓子みたいなポメラニアンを連れていた。


 賃貸じゃない⁉︎

 ワンテンポどころか、ツーテンポもスリーテンポも遅れて理解したタクミは、ぶるぶるっと背筋を震わせた。


 ジンがマンションを購入したのは、前職を辞めてコミック・バイトを立ち上げたタイミングらしい。

 社長にそそのかされて『お前がローンを完済するには会社を大成功させるしかないわけだ』という状態に追い込まれたのが背景のようだ。


 恐るべし、社長。

 ジンの首根っこを押さえるなんて、とんだ策士といえる。


「それって怖くありませんでした? 何千万円という借金を背負ったってことですよね? 毎日が綱渡りなんじゃ……」

「別に。そこまで怖くはないぞ。むしろモチベーションだ」


 ジンはエレベーターのボタンを押しながら事もなげに言う。


「マンションは気に入ったから買ったんだ。それに漫画家は作品に命を賭けているだろう。俺だってビジネスに命を賭けるのがフェアだと思った。ダサい言い方をすると、単なる見栄だな。背水の陣に近いかもしれない」


 単なる見栄で高級マンションを買えちゃうのか。

 仕事人としてのジンは手堅いイメージがあるから、意外な一面を見たという気がする。


 エレベーターは当然のように最上階で止まった。

 角部屋ではないものの陽当たりの良い南向きの部屋となっている。


「お邪魔しま〜す」

「緊張しなくていい。どうせ独身男の部屋なんだ」


 第一印象は、家具があまりない、だった。

 リビングにはガラス天板のダイニングテーブルと椅子が二脚ある。

 あとは壁にかけられた大型テレビ、四人が座れそうなL字型のソファーという具合。


 冷蔵庫や電子レンジという家電は揃っているが、ワインセラーやマッサージ椅子のような贅沢品は見当たらない。

 女性用のアイテムが一個もないから、交際相手が出入りしている、なんて可能性も低そうだ。


「神室さんって日頃から体を鍛えていますよね。トレーニング器具とかは?」

「近くのジムに通っている。二十四時間営業しているタイプだ。家でやるとしたらスクワットくらいだな」


 部屋は三つあって、ジンの私室、ジンの寝室、物置きとなっていた。

 物置きといっても客人が遊びにきたら寝泊まりする場所らしく、すぐ片付けられるようになっている。


 お風呂とかトイレも見学させてもらった。

 でっかいバスタブにはジャグジー機能が付いており、タクミが知っている浴室とはレベルが違っている。


「ラブホテルにありそうなバスタブだろう。大きいから気に入っている」

「いやいや⁉︎ ラブホテルのバスタブ、見たことありませんから!」


 仕事で遅い日はシャワーだけで済ませるそうで、バスタブに浸かるのは三日に一回くらいらしい。

 試しにタクミが入ってみると、余裕で脚を伸ばせてしまう。


 トイレや洗面台も高級ホテルみたいに広い。

 ベランダからの眺望だって夜になったら絶景だろう。


 タクミのボロアパートは築五十年だったから、月とスッポン。

 いや、比較するのも烏滸おこがましいか。


「今日はリラックスしていけ。俺も家で仕事するから。そうだな。せっかくだし風呂でも入っていくか」


 いつもなら『シャワーで十分です!』と遠慮するのだが、ジャグジーに興味があるし、疲労がピークなのも相まって、


「入っちゃってもいいですか⁉︎」


 と食いついてしまった。

 タクミが犬なら全力で尻尾を振っていたかもしれない。


「当然だ。天野は家を失ったんだ。今のお前に必要なのは癒しだろう」


 大小のタオルを渡された。

 これも使え、とジェットバスに対応している入浴剤をもらう。


「俺は買い物してくる。新しい下着類も買ってくるから、長風呂しておいてくれ」

「すみません! 何から何まで!」

「お腹が減っているんじゃないか? 出前でも注文しようか?」

「いえ! まだ火事のショックが抜けておらず、食べる気になれないといいますか……」

「そうか。風呂から上がったら改めて考えるか」


 タクミに浴室の使い方を教えると、ジンは財布を片手に出ていってしまった。


 どうしてジンは優しいのだろうか。

 コミカライズが流れてしまった件を、まだ申し訳なく思っているのだろうか。


 もちろん、ジンには恩返ししたい。

 一日でも早くタクミのヒット作を世に出したい。


 でも成功を予想できないのがエンタメという業界である。

 ジンにはジンなりの勝算があるのかなと思いつつ、タクミは汗臭くなったジャージを脱ぎ捨てた。


 お湯張り完了のブザーが鳴ったので、ジンからもらった入浴剤を投下してみる。

 オレンジ色が煙幕のように広がって、リラックス効果のある柑橘系の匂いが鼻をくすぐった。


 体を軽くシャワーで流してから片足をつけてみると、一瞬だけ足の裏がピリピリした。

 花が咲くように血管がほぐれていき、気持ち良さのあまり変な声を出してしまう。

 それから反対の足も入れて、ゆっくりと腰まで浸かった。


 火事があってからネカフェ難民みたいな生活だった。

 世界で一人きりになったような孤独に突き落とされた。


 できるなら人生をやり直したい。

 漫画にもっとエネルギーを注いでおけば良かった。

 これと似た後悔を一時間に一回くらいした。


 でもジンは駆けつけてくれた。


『天野の力になりたい』

『目の前で困っている漫画家一人救えなくて何が編集者だ』


 あのセリフを脳内再生すると心臓の弁がキュッと痛む。

 一体、タクミをどこまで喜ばせれば気が済むのやら。


「神様、仏様、神室様だよな」


 オレンジ色の水面を脚でパシャパシャと揺らしてみる。

 ジンに見つかったら、小学生かよ、と笑われそう。


「俺もいつかこんな家に住めたら……」


 ジンの気持ちを今より理解できるだろうか。

 あり得ない妄想を並べつつ長い息を吐く。


 ジンがどんなシャンプーやトリートメントを使っているのか気になった。

 ステンレス製のラックをチェックすると、案の定というべきか、ちょっとお高い感じのボトルが並んでいる。


「これを使ったら神室さんのようなデキる大人に……て、バカか、俺は」


 一人で勝手に意気消沈したタクミは、お湯に鼻まで沈めて息をぷくぷくさせた。

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