第11話 仕事が手につかなくて
ジンから『どこのネカフェに寝泊まりしているんだ?』とメッセージが送られてきた。
タクミがマップのURLを送ると『何番の部屋にいるんだ?』と間髪を
部屋番号なんて知ってどうするのだろうか。
平日の昼間だから、ジンは夜遅くまで会社に拘束されるだろうに。
頼りない手つきで送信して、スマホを充電器に挿しておく。
急に眠気が襲ってきた。
尊敬するジンの声が聞けてリラックスしたせいかもしれない。
クッションを枕代わりにして横になり、頭の中に海をイメージしてみた。
生き物がまったくいないダークブルーの世界。
吸い込まれるように落ちていく。
何分経っただろうか。
ドアをしつこくノックする音で目を覚ます。
タクミの頭はぼんやりしており、店側からクレームかもしれない、くらいの感想しか出てこない。
「はい……」
内側のロックを外す。
すると勢いよくドアが開いて、その向こうにジンが立っていたので、呼吸するのを忘れてしまう。
ジンは肩で息をしていた。
これは夢かと思ったタクミが動けずにいると、急に抱きしめられてしまった。
香水の匂いがする。
夢じゃない、布越しに伝わってくる体温だって本物だ。
「心配したぞ、天野」
「どうして来たのですか? お仕事中なんじゃ……」
「俺が目をかけている漫画家の一大ピンチなんだ。駆けつけるに決まっているだろう」
せっかく踏ん切りがつきそうだったのに……。
ようやく漫画の世界から卒業できそうだったのに……。
ジンは何回だってタクミを連れ戻しにくる。
嬉しさと悔しさがない混ぜになって、逞しい胸に甘えてしまった。
「天野の声があまりに弱々しいから、自暴自棄になっていると思ったんだ。こんな状態だと、俺だって仕事が手につかない。だから年休にしておいた」
「年休だなんて……」
仕事が手につかない、はタクミを納得させるための方便だろう。
どこまで優しい人なのだ。
タクミはNL部門の漫画家じゃなくなったから、ジンが面倒を見る義理なんてないのに。
「もしかして寝ているところを起こしたか? なら、すまない」
「いえ、目を閉じて横になっていただけです。寝るのには飽きちゃいましたから」
男と男がネットカフェで抱き合っている。
しかも片方は水も滴るイケメンときた。
BL漫画を読みまくったせいで理性が麻痺してしまったのか、もう少しこの状態をキープしたい、とタクミは願ってしまう。
「神室さん、俺のアパートが燃えちゃいました。ごめんなさい」
「俺が郵送した漫画本のことだろう。気にするな。同じのを買ってやるから」
「ですが、生活する場所がありません。ネカフェといっても一泊すればそれなりのお金が要りますし、ここに住み着いて漫画を描くのは厳しそうです。服だって今着ているジャージしかありません」
ジンの体温が遠ざかっていく。
タクミの心に隙間風が吹いた。
「心配するな。チャンスを潰した埋め合わせじゃないが、天野がこれからも漫画を描けるよう、環境を整えてあげたいと思っている」
「ですが、しかし、これ以上のご迷惑は……」
「違う。俺からのお願いだ」
ジンが真摯な目を向けてくる。
「天野の力になりたい。目の前で困っている漫画家一人救えなくて何が編集者だと思うくらいの
勢いに負けて頷いてしまった。
ジンは全部の荷物をまとめると、タクミの手を引いて歩き出す。
会計カウンターにいるスタッフに声をかけるなり、
「こいつのチェックアウトをお願いします」
といってジンは自分の財布を取り出した。
タクミの財布はジンに奪われたトートバッグの中なので逆らえなかった。
「俺の車だ。助手席に乗ってくれ」
ジンがロック解除したのは日本製のセダン。
自動車に疎いタクミであるが、高級車のラインナップに含まれているのは想像できた。
「お邪魔します」
汚れ一つないシートを目にして固まってしまう。
現在のタクミの体は非常に汚いのだ。
ネットカフェで無料のシャワーを浴びているが、ジャージも下着もしばらく交換していないから、この一年でもっとも不潔といえる。
「気にするな」
「……はい」
大人しく座っておいた。
顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。
「服がそれしかないんだよな」
「そうです。履き物もサンダルしかありません」
「だったら一から買い揃えるしかないな。日用品も必要だよな」
ジンの車がみるみるスピードを上げていく。
行き先を尋ねる気にもなれず、タクミは返してもらったトートバッグを抱きしめた。
「BL漫画、描けそうか?」
「ちょっと舐めていました。想像の十倍くらい奥が深いです。自信があります、といったら嘘になります」
「でも、今の天野には失う物がないだろう」
鋭い指摘にハッとなる。
「これは俺の主観だが、失う物がない人間は一番強い。そんな状態に追い込まれた天野がどんな作品を描くのか、俺は興味がある」
「内容はBLですよ? それでも読みたいと思いますか?」
「もちろん。漫画なら何だって読むさ」
赤信号に捕まった時、一度だけ視線がぶつかった。
「紫音さんほどBLに詳しくないけどな。俺にアドバイスは期待するな。純粋な読者として楽しませてもらう」
「神室さん……」
お前なら良い作品が描ける。
そう言われた気がして、タクミの右手が疼き始めた。
「紫音さんからの指令で一切漫画を描いていないそうだな。どうだ? 何か変わったことはあるか?」
「けっこう苦しいです。漫画を描かないって。今まで毎日描いてきましたから。一番好きな
「天野は本当に漫画が好きなんだな」
ジンの横顔が凛々しくて、つい凝視してしまう。
「神室さんは編集者の仕事、お好きですか?」
「どうかな。まあまあ好きという気はする。編集者の仕事が好きというより、頑張っている漫画家を見るのが好きなんだ。俺も頑張ろうって思えるから。スポーツ観戦に似ているかもしれない。アスリートが人生をかけて挑戦する。そういう姿は美しいし、見ていて飽きないだろう。俺はあくまでギャラリー席の人間なんだよ」
ジンが車のブレーキを踏む。
「ほら、着いたぞ」
窓の向こうには大きなマンションがそびえていた。
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