第10話 アパート、燃えちゃいました

 ジンからキスされる夢を見た。

 懐かしい景色だと思ったら、田舎にある実家だったので、夢の世界にいるのだと一発で分かった。


「目を覚ませ、天野」


 ジンはもう一度キスしてくる。

 タクミがBL漫画を読みまくったせいで、同性のジンにこんな真似をさせているのかと思うと、夢とはいえ罪悪感でいっぱいだ。


「起きるんだ、天野。お前の命が危ない」

「……えっ?」

「今すぐこの場から離れろ」


 タクミはハッとした。

 木の爆ぜる音がひっきりなしに降ってくる。


 音の発生源は上の階らしい。

 焦げ臭い匂いが嗅覚を刺激してきて、ようやく事態を悟った。


「火事だ!」


 ジャージ姿のまま家を飛び出した。

 入居者たちが続々と避難してきており、道路から心配そうにアパートを見つめている。


 燃えているのはタクミの斜め上にある部屋だった。

 しばらく雨が降っていなかったせいか、火は瞬く間に広がっていき、両隣の部屋からも煙が上がり始めた。


 この分だとアパートの全焼は免れないだろう。

 さっきまで気持ちよく寝ていたはずなのに、とんだ悪夢という気がする。


 入居者の一人がリュックを背負っていた。

 別の一人の手には財布とスマホと鍵の束が握られている。


 そうだ、貴重品だ。

 危ねえぞ! という声を無視したタクミは自分の部屋へ引き返して、サウナ室のように熱い空間へ飛び込んだ。


 トートバッグを広げて、財布、スマホ、ノートパソコン、タブレット端末を詰め込んだ。

 少し迷ってから充電ケーブルの類と大学ノートも入れておく。


 部屋の隅っこにあるダンボール箱が気になった。


 せっかくジンが送ってくれた漫画が焼けてしまう。

 まだ半分しか読んでおらず、本当ならダンボール箱ごと持っていきたいが、タクミが死んでしまっては元も子もない。


 結局、消防車がやってきたのは、タクミの部屋が黒い煙を噴き出した直後くらいだった。


 燃えていく。

 ジンの手紙も、BL漫画の名作も。

 タクミの宝物が容赦なく焦がされていくのを、呆然と見守ることしかできなかった。


 後から聞いた話によると、幸いにも怪我人は出なかったらしい。

 出火原因は調査中であるが、火元の住人は留守だったので、バッテリーの発火かコンセントからの出火が濃厚といえた。


 行き場所を失ったタクミは仕方なく近所のネットカフェへ向かった。


 明日からどうしよう。

 新しい家を借りるしかないだろうか。


 タクミは限りなく無職に近い。

 アパートには大学時代から住んでいたが、他に借りられる物件があるとは思えず、ルームシェアしてくれそうな知り合いもいない。


 実家に連絡して父親名義で契約してもらうか。

 ダメだ、売れない漫画家を続けるくらいなら実家に帰って仕事を探せと言われるだろう。

 タクミが漫画家になりたいと打ち明けた日、父も母も応援してくれたが、とっくに昔の話である。


 人生詰んだ。

 タクミはネットカフェの個室で頭を抱える。


 次の日、物件の管理会社から連絡があった。

 規定のルールに基づき一定の補償金が振り込まれます、という内容だった。

『やむを得ぬ事情により一方的に退去を迫られた場合……』云々うんぬんみたいな説明もあったが、傷心のタクミにとっては右の耳から左の耳だった。


 とりあえずジンと紫音には連絡しておいた。

 住んでいたアパートが燃えました、しばらく漫画を描けそうにありません、と。


 ドリンクバーしか飲んでいないお腹が鳴る。

 けれども食欲はちっとも湧いてこない。


 BL漫画家として再デビューしよう。

 コミック・バイトの成長に貢献しよう。

 新しいモチベーションが見つかったばかりなのに一夜で奪われてしまった。


 アンラッキーに継ぐアンラッキーである。

 タクミより不幸な日本人は何人いるのだろうか。

 ニヒルな想像が止まらなくなる。


 ジンは何と思うだろうか。

 タクミを心配するほど暇じゃないか。


 紫音は何と言うだろうか。

 今回は運がなかったね、で終わりだろうか。


 身も心もボロボロに打ちのめされているはずなのに……。

 タクミの右手は漫画を描きたいと訴えてくる。


 頭がパニックになり、しょっぱい涙が落ちてきた。


 バイブレーションの音で目を覚ました。

 充電を忘れていたせいでバッテリーアイコンが黄色くなっているスマホには『神室さん』の四文字が表示されている。

 申し訳ない気持ちで通話をタップした。


「もしもし……」

「天野、無事か? 俺だ。さっき紫音さんに声をかけられてメッセージに気づいた。どこか怪我しているのか?」

「いえ、体は平気です。財布とかパソコンも持っています。アパートは完全に燃えちゃいましたが……」


『しばらく漫画を描けそうにありません』という文脈を、右手を負傷した、とジンは解釈したらしい。


 タクミはジンに謝罪した。

 送ってくれたBL漫画が全部灰になりました、と。


「バカヤロー。そんな心配、どうでもいい。漫画なんかより天野の命が優先だろうが。お前が無事ならそれでいい」


 マットの上にタクミの涙が落ちてきて、ポツポツと雨音のようなリズムを刻む。


「良くないです。住む場所がないと、もう漫画を描けません。今度こそ終わりです。過去にも理不尽はありましたが、今回の理不尽には勝てそうにありません」


 ブルブルっと揺れたスマホには、バッテリー残量が少なくなっています、の警告メッセージが表示されていた。

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