第9話 ジンからの贈り物

 BL漬けの毎日が始まった。

 朝から晩までボロアパートにもって、山のように積み上げられたBL漫画を消化しまくる。


 人生の崖っぷちなのだ。

 食事中だろうが、入浴中だろうが、BL漫画に目を通し続けることで、再デビューのために必要な知識を蓄積していった。


 紫音からは何個か指令を受け取っている。


 一番困ったのは漫画を一切描くなというやつ。

 もちろんイラスト類も禁止である。


 これは謎すぎた。

 タクミの経験上、一日でも絵を描かない日があると、画力はガクッと落ちる。

 三日も描かない日が続くと、元のレベルに戻すまで二週間は要するだろう。


 紫音なりの考えがあるのだろうが、タクミには自殺行為としか思えず、何度も禁を破りそうになった。


 絵を描けないって辛いんだな。

 自分が段々透明になっていくみたい。


 タクミを散々苦しめてきた漫画が、なぜか無性に恋しくなる。


 描きたい、描きたい、描きたい……。

 アルコールの中毒患者みたいに手が震えてしまい、十回くらい腕立て伏せすると収まった。


 指令の二つ目は、BL漫画の感想文を書けというやつだ。


 紫音は理由を教えてくれなかった。

 アウトプットして勉強しろという意味合いだろう。


 作品のどこに惹かれたのか。

 商業的価値があるのはどの部分なのか。

 自分の頭で考えながらパソコンに打ち込んでいった。


 百作品くらい読むとテンプレートの形が見えてきた。

 タクミが思うに、キャラクターの組み合わせがキモで、大別すると十くらいのカテゴリに収まりそうだ。


『やおい』とか『ノンケ』という言葉は知っていたけれども、『タチ』とか『ネコ』という言い回しは二十六歳にして初めて知った。

 新品の大学ノートを広げて、単語と意味を忘れずにメモしていく。


「けっこう奥が深いな……」


 これを料理できるだろうか、という怖さはある。

 紫音はBL世界を海に喩えていたが、うっかりすると深海に呑まれてしまいそうだ。


 困ったことは他にもある。

 作中にジンとよく似たキャラクターが度々登場してくるのだ。


 似ているのはルックスだったり、性格だったり、雰囲気だったりマチマチなのだが、中には三点ともジンに似たキャラクターが存在したりする。


 そうだよな。

 ジンは文句なしで格好いい。

 身近にジンのような男性がいたら、楽しい妄想をしたくなる女性もいるだろう。


「神室さん……」


 名前を口走ってしまい、タクミは自分の頭を殴りつけた。


 いやいやいや⁉︎ 失礼だろう⁉︎

 ジンのことを自分もそういう目で見ちゃうなんて、神に誓ってあり得ない。

 あってはならない。

 もはや罪。


 別の一冊を手に取った。

 こっちは高校生同士のカップリングで、エロも必要最小限であり、BLの勉強に集中できた。


 こつん、と本が頭にぶつかった衝撃で目を覚ます。


 BL漫画を読みながら寝落ちしちゃったらしい。

 タクミは布団から抜け出して、冷たい水で顔を洗っておく。


 タクミの家には髭剃ひげそりなるものがない。

 男のくせに髭が少しも生えてこないのだ。


 この話を友達にしたことがあって、男性ホルモンが少ないんじゃないかと指摘された。

 むしろ剃る手間がいらないから羨ましいとも。


 う〜ん。

 昔から女々しいという自覚はある。

 女の子向けのアニメに抵抗がなかったり、スポーツ全般が苦手だったり、銭湯の男風呂に入ると少し恥ずかしかったり。


 かといって性的マイノリティではない。

 女装したいとは思わないし、女の子に生まれ変わりたいと願ったこともない。

 むしろ、売れている男性漫画家を見て、自分もああいう成功者になりたいと憧れたりする。


「そろそろ食糧を調達しに行くか」


 タオルで顔を拭っていると玄関のベルが鳴った。

 ドアの向こうに立っていたのは宅配業者のユニフォームをまとった青年であり、天野さんのお宅で間違いないですか、と聞かれた。


「ダンボールが二箱あります。重いので気をつけてください」

「ありがとうございます」


 実家から荷物が届くなんて珍しいなと思いきや、送り主のところが『神室ジン』となっており、びっくりして箱を落としそうになった。

 慌てて開封すると、大量の漫画本と一通の手紙が入っている。


『中古マーケットで仕入れた同人誌だ。どれも紫音さんオススメだから読む価値があると思う』


 嬉しさのあまり目の奥が熱くなった。

 メッセージが短い分、かえってジンの優しさが伝わってくる。


 すぐにスマホを取り出してジン宛のメッセージを作成した。


 たくさんお礼の文章を打ちたい。

 けれどもジンは忙しいだろうし、長文だと嫌がられるだろうと思いつつ、打ったり消したりを繰り返す。


『先ほど荷物が届きました。ありがとうございます! 全部読みます! 絶対に連載をゲットしてみます! ようやくBLの奥深さが分かってきました。これほど多種多様なニーズがあるのですから、俺の居場所も見つけてやります』


 思いっきり削ったつもりだが、相変わらず長いなと自分でも呆れてしまう。

 送信から十秒もしない内に返信があり、再びびっくりする。


『応援している』


 短文なのがジンらしい。

 タクミはスマホを胸に押し当てたまま目を閉じて笑った。


「神室さん、本当にありがとうございます」


 コミック・バイトの社屋がある方向に頭を下げておいた。

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