第8話 一口にBLといっても
クールなジンとは対照的に、紫音はフレンドリーで底抜けに明るい人だった。
同じ編集長といっても千差万別なのだと、タクミはメモを取りながら考える。
「天野くんってBL漫画を読んだことはある?」
「有名どころを手に取るくらいなら……」
タイトルを伝えると紫音の眼鏡が光った。
「あれね。いいよね。あの作品がBLの入口だったと話す人に会うのは君で五人目だよ」
「は……はぁ……」
一口にBLといっても細かいジャンルはたくさんある。
アイドル、貴族、執事、学生、サラリーマン、スポーツ男子など。
百パーセントBLに振り切っている作品もあれば、ヒューマンドラマにBL要素がちょこんと乗った作品もあることくらい、門外漢のタクミでも知っている。
「海にもたくさんの表情があるだろう。人に恵をもたらしたり。人を危険に引きずり込んだり。七つの海に負けないくらい広くてデンジャラスな世界なのさ」
紫音は意味深っぽいことを言った。
「俺ってそこらへんに疎いのですが、男性でもBL漫画を読むのですかね?」
「良い質問だね。好きな人は好きだよ。天野くんが思っているより男性読者の数は多いんじゃないかな。電子書籍の普及も一役買っていると思う」
BL漫画を読む男性読者、イコール同性愛者というわけでもないらしい。
理解しにくい感覚だなと思いつつ、タクミはメモを残しておく。
「とりあえずBL漫画をたくさん読んでみなよ。天野くんのフィーリングに合うやつが見つかると思うから。その結果を参考にしつつ私が進むべき方向を決めるよ。君をBL漫画家としてプロデュースしてあげようじゃないか」
「すみません。紫音さんにも負担をかける形になってしまい……」
「いいって。壮大な社会実験の一環なのさ」
紫音が小気味よく指を鳴らした。
「私の連絡先をあげるから。困った時はいつでも連絡してくれたまえ」
一枚の名刺を渡されたので、失くさないよう鞄のポケットに入れておく。
「すでに神室くんと話した内容かもしれないけれども、どうして転向しようと思ったの? 単なる伸び悩みって感じでもなさそうだよね」
「それは……」
「恥ずかしがらなくていいよ。君の描いたBL漫画がこれから全国へ発信されるんだ。その恥辱に比べたら、大した恥ずかしさじゃないだろう」
「うっ……」
そのシーンを想像したタクミの喉を甘酸っぱい味が伝う。
「少しでもコミック・バイトに貢献したいからです。もう子供じゃありませんから。可能性のある方に賭けたいのです」
「かなり殊勝なことを言うんだね」
タクミの答えを予想していたであろうくせに、紫音はニコニコと笑っている。
「でも、君が恩返ししたいのはコミック・バイトに対してなのかな? それとも神室くんに対してなのかな?」
「難しいことは分かりません。でも、神室さんに対する恩返しはコミック・バイトに対する恩返しに直結していると思います」
「なるほど。正論だ。愛だね」
「愛ですか?」
無意識のうちに『愛』とメモ帳に書いてしまった。
「誰かの役に立ちたい。それって広い意味での愛だろう。天野くんはきっと愛をエネルギーに変えて前進するタイプなんだよ。漫画家になる人って、根は優しいタイプが多いし、天野くんもその一人じゃないかな。でも、NLの実績があるのに、BLへ転身するなんてびっくりだ。大した覚悟なんだね」
「それは俺を褒めすぎです。単に神室さんのアドバイスに従っただけですから。神室さんのアドバイスは正しかったと証明したい。俺が考えているのはその一点です」
仲良しの師匠と弟子みたいだね。
紫音がそう呟いた気がするが、声が小さくて聞き取れなかった。
「俺からも質問していいですか?」
「うん、何でも聞いちゃってよ」
「紫音さんの目から見て、神室さんってどういう人ですか?」
その質問を一ミリも予想していなかったのか、紫音は目を丸くする。
「それって異性としてって意味? それとも同業者としてって意味?」
「もちろん後者です!」
紫音の左手には指輪があるから、二通りの解釈をされるとは思わなかった。
「そうだな。神室くんは不器用な男かな」
「不器用……ですか?」
「もちろん仕事面の能力は申し分ないよ。その反面、頑張りすぎちゃう部分があるというか、有能だからこそ自分の手で片付けようとする一面はあるよね。そこが不器用。あ、これ、本人には絶対内緒ね」
「もちろん秘密にします」
「だからさ、びっくりしたよ。彼から相談を持ちかけられた時は。『うちの天野をNLからBLにコンバートさせる案、紫音さんはどう思います?』てさ。この男でも本気で悩むんだなって。見た目ほどクールじゃないよなって」
ジンは漫画家や同僚を大切にする。
だから紫音も一目置いている。
そんな話だった。
会話の切れ目になった時、紫音の電話が鳴り出したので、今日の打ち合わせは終わりとなる。
受付のところで来客者用カードを返してからコミック・バイトを後にした。
ふと頭上を見上げる。
ビルとビルの隙間に青い空が広がっている。
この世界は美しいなと、タクミは久しぶりに思った。
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