第7話 お前がいいんだ

 案内されたのはジンが管轄するNL系のレーベル。

 ではなくフロアの反対側に位置するBL系のレーベルだった。


 デスクを向かい合わせるように二つ。

 それが四つ並んで一個の大きな島になっている。

 いずれも若い女性スタッフばかりで、一様に真剣な目つきで仕事に打ち込んでいた。


 通路を挟んだところに編集長のデスクがある。


紫音しおんさん」


 ジンに呼ばれた女性が顔を上げる。


「やあ、神室くん。その子が例の?」

「そうです」


 背中を軽く押されたタクミは、


「天野タクミと申します。これまでNL系の作品を手掛けてきました」


 と挨拶しておいた。

 自作のタイトルを伝えようとしたら、知っている、と笑われてしまった。


 紫音はロングの髪をゆるくウェーブさせている四十歳くらいの女性だ。

 上はモスグリーンのハイネックニット、下はロングスカートという落ち着いた服装をしている。


 知的なハーフリム眼鏡をかけている紫音は、手に持っていた資料を伏せると、デスクに片肘をついた。


「その子、本当にうちでもらっていいのかい? 貴重な戦力なのだろう?」

「天野にはBLの方が似合っていると俺が判断しました」

「BLを描いた経験はあるの?」

「ないですが、こいつなら問題ないでしょう。誰だって最初は初心者ですから」

「でも、NLとBLじゃお作法がけっこう違っていたりするのよね」

「天野の作風を変える。その点については同意済みです」


 話の流れが上手く読めないタクミは、すみませ〜ん、と蚊が鳴くような声で割って入る。


「なんか俺がBLへ移籍するみたいな流れになっていませんか?」


 二人の編集長から同時に見つめられたので、ひぇっ⁉︎ と女の子みたいな声を出してしまう。


 もしや人身売買というやつだろうか。


 ジンは紫音に何らかの借りがある。

 あるいは弱味を握られているのかもしれない。


『ふっふっふ、神室くん、活きがいいのを一匹くれないか?』


 そんな密約が二人の間で交わされたというのか。


 対価として天野タクミというカードを差し出す。

 じゃないとNL系レーベルからBL系レーベルへ漫画家が移籍なんて辻褄つじつまが合わないだろう。


「俺は構いませんよ! トレード要員ってことですよね! レーベル間の駆け引きみたいなものがあって、俺は交渉の材料に使われるってことですよね!」


 ジンと紫音の目が点になった。

 どうやら頓珍漢な発言をしちゃったらしい。


「えっ? あれ? 違います?」

「おいおい、神室くん、本人に半分しか説明していないのかい?」

「いや、半分の半分ですかね」

「なんてこったい!」


 もう我慢の限界というように紫音が爆笑した。

 机をバンバン叩いて、子供みたいに脚をバタつかせている。


「ごめん、ごめん、声に出して大笑いしちゃうの、私の良くない癖でね。あ〜、面白すぎてびっくりした」


 紫音は眼鏡の裏の涙をぬぐった。


「紫音さんのことを簡単に紹介しておくと……」


 ジンいわく、紫音はBLマイスターらしい。

 別の出版社で働いていたのをコミック・バイトの社長がリクルートしてきた。

 ジンと同じく創業メンバーの一人なのである。


 小説だろうが漫画だろうが、BLについて語らせると紫音の右に出る者はそうそういない。

 そっち方面の人脈もかなり充実させており、コミック・バイトの成長に多大な貢献をしてきた。


 ジンの得意分野がプロモーションだとしたら、紫音の得意分野はプロデュース。

 ユーザから支持される漫画を量産することに長けている。


「ここまでコミック・バイトが大きくなったのは、紫音さんとBL部門のお陰といっても過言はない。詳しいデータは教えられないが、BL好きのユーザは課金してくれる金額が大きい傾向にあるんだ。早く続きを読みたいと思わせる作品を生み出すのが、紫音さん達は本当に上手い」


 ジンの褒め言葉を聞いていた女性スタッフが嬉しそうに頷いているのをタクミは見逃さなかった。


「その点、神室くんは浅いよね。NLジャンルに関する知識が。どうせ幼少期は勉強とスポーツばかりやって、漫画アニメにそこまで触れてこなかった側の人間でしょう」

「うるさいですよ。新田とかが詳しいからいいんです」


 図星なのかジンが珍しくムキになっている。

 貴重なシーンを見たせいでタクミの胸は若干ときめいた。


「とにか〜く、私はいくらでも描き手を募集しているのです。男女問わずね。そこで天野くん」


 ピシッと指を突きつけられたタクミの肩が震える。


「君の力をうちに貸してくれない?」


 一存では決められずジンを見た。


「紫音さんの言った通りだ。BL漫画の部署が描き手を募集している。最後に挑戦してみないか?」

「ですが、しかし、本当に俺なんかでいいのでしょうか?」

「俺なんかじゃない。お前がいいんだ」


 もう無理だった。

 ジンのようなカリスマ編集者から『お前がいい』と言われてしまった。

 胸の深いところがうずいてしまい、断るという選択肢を手放そうとしていた。


「しかし、即戦力なのですよね? 俺が役に立てると、紫音さんはお考えでしょうか?」

「もちろん」


 紫音はポンと胸を叩く。


「神室くんから天野くんを紹介された時はびっくりしたよ。若い男性漫画家にしては珍しく、とても繊細なストーリーを描くからね。君はBL向きかもしれない。BL漫画家として大きな才能を秘めているかもしれない。私はその可能性に賭けてみたい」

「大きな才能……ですか」

「なに、漫画家としての基礎は完成しているんだ。車のパーツをちょこちょこっと交換するみたいにカスタマイズすればいいだけの話。つまり、即戦力さ」


 紫音が簡単そうに言ってくれるから、本当にやれそうな気がしてきた。


「おっと、すまん、俺は次の打ち合わせだ。天野にはまた連絡する」


 腕時計を気にしたジンは足早に去ってしまった。

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