第6話 作風を捨てる覚悟

 何粒の涙が体から抜けていっただろう。

 タクミの前には山盛りのティッシュがあり、その向こうには腕組みするジンがいた。


「すげぇ量」


 ジンが白い歯を見せて笑う。


「すみません、会社のティッシュなのに大量消費しちゃって」

「気にするな。俺の私物だから好きなだけ使ってくれ」

「もっとダメです!」


 ティッシュの箱をジンの方へ返しておく。


 どうりで優しい肌触りのティッシュだと思った。

 タクミの家のティッシュはザラザラしていて安っぽい。


「落ち着いたか? のど飴でも食うか?」


 断るセリフも思いつかず素直に手を出しておいた。


 ミントの味が口いっぱいに広がって気分をスッキリさせてくれる。

 奥歯に挟んでコロコロ遊んでいるとジンに笑われた。


「天野は本当に子供みたいだな」

「うっ……お行儀が悪いのは自覚しています……」

「そうじゃない。無邪気なんだよ。クリエイティブな証拠だろう」


 褒められていると分かり、今度は照れてしまう。


「俺が暇人だったら、三時間くらい話に付き合ってやりたい。あいにく二十分後に次の打ち合わせが控えている。天野の今後について、話を進めてもいいか?」

「お願いします。とはいえプランは白紙で、燃え尽きてしまった感はありますが……」


 ジンは三つのルートを提示してくれた。


 新しいオリジナル作品で連載を目指す。

 コミカライズの作画担当としてスキルを伸ばす。

 あるいは引退してしまう。


「引退といっても一時引退だな。実家に帰ってみるとか、一度漫画から離れてみるのも手だと思う。案外、旅行先で二、三日休んだら、創作欲が復活するケースもあるだろう」

「かもしれません」


 そういうタクミの声は弱い。


 残念ながら創作欲は迷子になっていた。

 いつも心の中にあった『こういう作品を描きたい!』という情熱の火が完全に消えちゃっている。

 よってオリジナル作品は無理だろう。


 消去法でコミカライズの作画担当しかない。

 ストーリーは決まっているわけだし、漫画としてリメイクするくらいなら、現在のタクミでもやれそうな気がする。


 とはいえモチベーションは低い。

 いや、かなり低い。


 そんな状態でペンを持つなんて、原作者や原作ファンに対して失礼だし、エンタメ文化に対する冒涜という気もする。


 何よりジンを落胆させるのが怖い。

 作品の失敗が怖いというより『手を抜いているんじゃないか』と疑われるのが一番怖い。


「やっぱり、コミカライズの作画担当でしょうか?」

「どうしてそう思う?」

「それは……」


 自分のストーリーに自信がない、と口走りそうになり、何とか飲み込んだ。


「会社がコミカライズを推し進めていく方針ですから。俺も少しは貢献できると思います」

「あくまで会社の問題だ。天野が無理に付き合う必要はないだろう」

「しかし、俺の力を必要としてくれる人がいるかもしれません」

「これを見ても同じことが言えるか?」


 ジンが見せてくれたのはコミカライズ予定の作品リストだった。

 タイトルと簡単なあらすじ、作品のテーマが載っている。


 目につくのは『イチャラブ』とか『同棲ライフ』とか『複数の美少女』とか『金髪ギャル』というキーワード。


 タクミの得意じゃない分野だから表情が引きつってしまった。

 求める漫画家の条件にも、エロを上手く表現できる人、セクシーな表情や仕草が得意な人、とストレートに記載されている。


「軽薄なタイプの作品ばかりだ。そういうニーズが強いのは分かるが、天野の強みが生かせるジャンルからはほど遠い。このコミカライズに挑むからには、今まで培ってきた作風を捨てる覚悟が求められる」

「うっ……」


 確実に失敗する。

 それをジンも分かっているから、苦虫を噛み潰したような顔をしているわけか。


「かなり分が悪い勝負、いや、単なるギャンブルだな。それでも天野は挑むつもりか?」


 万策尽きたというやつか。

 タクミの脳裏を引退の二文字がよぎる。


「やり……ます……」

「声が震えているぞ」

「やりますよ! 俺の作風を捨ててやりますよ! それでもダメなら引退します! 次の作品が俺のラストになっても構いません!」

「苦手な土俵で勝負するってことだぞ?」

「分かっていますよ!」


 ジンがその気になれば一方的に描けと命令することも可能なのだ。

 こうやって質問してくるということは、タクミの覚悟を見定めているのだろう。


「どうして作風を捨てられる? 漫画家にとって生命線だろう? 何が天野をそこまで突き動かすんだ? ポリシーを捨てるなんて天野らしくないだろう?」


 ジンの声が低くなり、一瞬ドキッとする。


「変ですかね? 時代のニーズに合わせようとするのって?」

「俺は天野の作風が好きだ」


 作風の話をしているのに、自分のことかと錯覚しそうになる。


「俺はコミック・バイトに貢献したいのです。お世話になった神室さんや新田さんに恩返ししたいのです。ちゃんと数字を出して誰かの役に立ちたいのです。コミック・バイトがなければ俺はプロデビューしていませんでした。大きな借りがありますから」

「つまり、俺たちのために作風を変えるのだな?」

「はい、その覚悟はあります」

「そうか。ありがとう」


 信じられないことが起こった。

 売れない漫画家のタクミに向かって、編集長のジンが頭を下げてきたのである。


「俺はこれから天野の良心につけ込むことになる。コミック・バイトを成長させるために作風を変えてくれとお願いする。どういうわけか説明するから俺についてきてくれ」


 ジンは立ち上がると、こっちだ、と手で示した。

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