第5話 零れ落ちていく幸運

 怒涛の三ヶ月が過ぎていった。

 この間にいくつか変化があった。


 まず七年間使ってきた電子レンジが壊れた。

 これを新田に話すと、買い替える予定だから俺のをあげるよ、と車で家まで届けてくれた。


 あと手書きのファンレターをもらった。

 漫画家志望の子からで『天野先生みたいに味のある作品を描けるようになりたいです!』とあったが、タクミの打ち切りは決定しているから、ほろ苦い気持ちにさせられた。


 タクミは朝から晩までペンを握り続けた。

 漫画に集中している状態がショックの傷を癒してくれた。


 そして今日。

 最終話の原稿データを完成させたタクミは、シャツにデニムという大学時代から成長しない服装で、コミック・バイトのブース席に腰かけていた。


『漫画家を続けるのか辞めるのか三ヶ月考えてみろ』

 ジンから言い渡された宿題についてずっと悩んできた。


 やっぱり漫画は好き。

 心から愛していると断言できる。


 その一方、コミック・バイトという組織やジンや新田にこれ以上の迷惑をかけたくない、という気持ちも同じくらい強い。


 そもそもプロを続ける意味ってなんだろうか。

 別の仕事をやりながら、空いた時間にチマチマ漫画を描いたらいいじゃないか。


 今の時代、漫画投稿サイトが充実しているから、プロとアマチュアの垣根は無くなりつつある。

 アマチュアに戻ったら戻ったで『自分の描きたい作品を描ける』『いつまでも連載できる』『数値目標のプレッシャーから解放される』という特権が手に入るから、プロ級の実力がありながら商業デビューを選ばない描き手も珍しくない。


 出版社に魂を売る。

 商業デビューをそう表現する人もいるくらい。


 今日、タクミの本音を告げてみよう。

 天野の力が必要だ、と言われたら連載に再チャレンジしてみようと思う。

 漫画が好きだからという理由で続けられるほど、二十六歳という年齢は若くない。


「すまない、待たせたな」


 両手に紙コップを持ったジンがやってきてタクミの前に一つ置いてくれた。


「端末と資料を取ってくる」


 ジンがすぐに去ってしまう。

 仕方ないのでお茶を一口飲んでおく。


 タクミは小首を傾げる。

 ジンの顔色はやや精彩を欠いていた。

 編集長のポジションにいるからハードワークなのは理解しているが、焦りやプレッシャーは隠しておく人というイメージがあった。


 思い当たるとしたらコミカライズ。

 K出版との間にトラブルでも抱えているのだろうか。


 タクミを作画担当として進めたい、というのが前回の話だった。

 アニメ化の可能性もある、と新田が息巻いており、会社としても成長エンジンにしていく方針らしい。


 タクミは背筋をぴんと伸ばす。

 ジンの足音が戻ってきて、タクミの真向かいに腰かけた。


「……」

「…………」


 しばらくの沈黙。

 この気まずい空気を破ったのは、ジンの盛大なため息だった。


「最終話の原稿データ、ありがとう。俺もさっき目を通した。限られたページ数の中で本当に良くまとめてくれたと思う。正直いってプロットを組み替えたとは思えないクオリティだ。天野の持ち味が凝縮されている。特に最期の一ページな。一年間の集大成だ。たくさんの読者に一気読みしてほしいから、俺たちもサイトトップで宣伝していこうと思う」


 大きすぎる褒め言葉に恐縮してしまう。


「大切な話がある、ということでしたが、どういったご用件でしょうか?」

「まあ、待て」


 ジンに手で制された。


「どうだった。本気で三ヶ月漫画を描いてみて。新田から聞いたぞ。近所のスーパーと散髪以外、ほとんど家を出ていないそうだな」


 こくりと頷くタクミの肌は以前よりも白さが増している。


「与えられたチャンスですから。世の中には連載したくても連載できない人がいっぱいいます。俺は恵まれています。そう考えると、手を抜くなんてできません」

「天野はいい奴だな」

「そんな……」


 疲れ切った戦士のようなジンの笑顔にあてられて、タクミは目を逸らしてしまった。


「でも、若い人に枠を譲るべきなんじゃないかって気もします。世の中には俺より若くて才能ある人がたくさんいますから」

「繰り返すようだが、天野はまだ若い。デビューだって早い方だ」

「チャンスを活かせませんでした」


 デスクに置いた握り拳に力が入る。


「すでに二回失敗しています。もう一回トライして、それでも失敗したら、アマチュアの世界に戻ろうと思います」

「別の仕事を見つけて、趣味で漫画を描くというわけか?」

「ええ、プロという肩書き、俺には似合いません」


 そうか、と頷くジンの声は、なぜか悲愴の色を帯びていた。


「……神室さん?」

「ありがとう、天野。今日お前を呼んだのは、直接謝りたいと思ったからだ」


 やっぱりだ。

 コミカライズの話が難航しているのだ。

 でなけりゃ、今日の打ち合わせは新田が出てきて、今後はどういうスケジュールで進めるとか、ネーム原稿をいつまでに仕上げるとか、現場レベルの話に落ち着くはずなのだ。


 出てきたのは新田ではなくジン。

 そもそものスケジュールが崩壊してしまった証拠だろう。


「コミカライズの話、もしかして流れちゃいましたか?」

「そうじゃない。うちで連載するのは本決まりだ。ただ……」

「俺が作画担当することにK出版が難色を示されたのですか?」


 ジンのこめかみが怒張した。

 タクミに対して怒っているというより、もっと大きな理不尽に怒っているという感じだった。


「例のライトノベルに関しては、コミック・バイトでコミカライズする、作画担当もコミック・バイトが選定する、という話だった」

「だった?」

「K出版が別に二名の漫画家を見つけてきた。天野を加えて三名だ。そのリストを原作者に提示して、誰か一名を選んでもらおうという話に変わった」


 コンペに近いイメージか。

 だったらジンが気落ちしているのも納得である。


「つまり、俺は負けちゃったのですね」


 ジンを直視できなくて、タクミは視線を伏せる。


「酷な言い方をすると、天野は敗北した。原作者は別の漫画家を希望した。その漫画家がうちと契約して、コミック・バイトで連載することになる」


 ジンの説明はしばらく続いた。


 もちろんコミック・バイトは抗議した。

 約束した内容と違うじゃないですか、すでに漫画家を確保しちゃいましたよ、と。


 反故にした埋め合わせじゃないだろうが、K出版からコミカライズを予定している作品のリストが送られてきた。


 好きな作品をコミック・バイトが選んでいい。

 漫画家の選定について今度こそK出版は口を挟まない、という約束らしい。


 話が途中でひっくり返るなんて、ビジネスの世界では珍しいことじゃない。

 現にタクミの周りでも、レーベルが潰れるとかで、泣きながら筆を折ってきた漫画家をたくさん見てきた。


 しかし、違う。

 悪いのはK出版でも原作者でもジンでもない。


 タクミの実力が足りなかった。

 シンプルかつ残酷な事実だけが存在している。


 やってしまった。

 ジンの役に立てなかった。

 期待を大きく裏切ってしまった。

 連載という土俵にすら立てなかった。


 自分にもっと実力があれば、ジンは今頃晴れやかな表情をしていただろうし、『さすが天野だな。原作者がお前を指名してくれた』といって肩を叩いてくれたはずなのに……。


 ジンの計画を壊してしまった。

 心がバラバラに砕けてしまいそうで、痛む胸をシャツの上から押さえた。


「神室さん……俺……」


 泣いたらダメだ。

 頭では分かっているのに次から次へと涙が落ちてくる。

 視界がぐちゃぐちゃに歪んで、ジンがどんな表情をしているのか見えなくなる。


 仕事には厳しいジンのことだ。

 怒っているだろうか、あるいは冷静に次のプランを練っているだろうか。


 自分は本当にダメな漫画家で、ジンに貧乏くじを引かせたのかと思うと、涙がさらに加速していった。


「メッチャ悔しいです。誰かに負けて悔しいと思ったの、生まれて初めてです。俺から漫画を取り除いたら、他に何も残りませんから。漫画で役に立てないってことは、これまでの人生が無価値ってことですから」


 ジンはわざわざ席を立ち、泣きじゃくるタクミを横から抱きしめてくれた。


「天野……」


 背中を叩いてくれる手のリズムが妙に心地良かった。

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