第39話 天野タクミ育成計画

 ジンに吸われた部分がヒリヒリする。

 タクミが抵抗しないのが嬉しいのか、ジンは野生的な笑みを向けてきた。


「天野のコミカライズが頓挫した後、俺は一つの賭けに出た。天野をBL漫画家としてデビューさせる作戦だ。もちろん、天野にはBLの適性があると思った。その点については紫音さんにも天野の作品を読んでもらいお墨つきを得ておいた」


 ジンはいったん言葉を切る。


「天野のBL転向にはもう一個の狙いがあった。言わなくても分かるよな?」

「俺がBLの良さに目覚めるかもしれないと?」

「そうだ。ゼロだった可能性が十パーセントくらいに増えるだろう。賭けから降りるなんて選択肢はなかった」


 まんまとジンの術中にハマってしまった。

 BL漬けの毎日を送って以降、坂道を転げ落ちていく石のように、ジンに対する恋慕も加速していった。


 恩返ししたい。

 コミック・バイトの成長に貢献したい。

 最初の一歩はごく平凡なモチベーションだったと思う。


 途中から境界線が曖昧になっていき、ジンのために頑張っているのか、読者のために頑張っているのか、自分でも分からなくなった。


「誰かのために頑張る時、天野は途方もないパワーを発揮する。そのことも見抜いていた。誰かというのは不特定多数じゃなくて、身近にいる誰かがいいと思っていた。その誰かに俺はなりたかった」


 一体、どこまでタクミの性格を見抜いているのだろうか。

 ジンの探究心のようなものに畏敬の念を抱いてしまう。


「天野のアパートにBL漫画を送っただろう。ワクワクしながらダンボール箱にBL漫画を詰めた。これを栄養にして天野が成長するのかと思うと、期待で胸が爆発しそうだった。天野は吸収が早いからな。大好きなペットに特上のエサを与える気分だった」

「純粋に嬉しかったですよ。神室さんの応援は」

「本当にいい奴だな、お前は」


 目の横に追加のキスをもらう。

 ジンの股間に視線を落としたタクミは、縫い目のあたりがギンギンに膨らんでいるのに気づき、はしたない妄想をしてしまった。


「ミラクルは待っていた。天野のアパートが事故で燃えた。メッセージで知らされた時はびっくりして、でも天野が無事と分かって安堵した。ネカフェに滞在していると知った時、これは千載一遇のチャンスだと思った」

「行き場のない俺を保護できるからですか?」

「そうだ。しかも恩を売れる」


 ジンはステアリングに手をかけて色っぽいため息を吐く。


「分かるか? 好きな人が独りぼっち。悲運に打ちのめされている。しかも頼れる人がいない。こんなに美味しいシチュエーション、人生に一度きりだろう。天野に会いたい気持ちが強すぎて、ネカフェへ向かう車を運転する時、途中で事故らないか自分で自分が心配になった」

「それほどまでに俺のことを?」

「当たり前だ! 俺の胸は天野でいっぱいだ!」


 恥ずかしさと嬉しさで体の芯が熱くなる。


「天野の性格上、人から受けた恩を無下にできないことも知っていた。これであらゆる条件が整いつつあった。きっかけ一つあれば天野を俺のものにできる予定だった」


 ジンのさりげないアピール作戦が始まった。


 初手は風呂場からタクミを呼んだやつ。

 洗顔フォームが切れたから新しいのを取ってくれ、と。


 日頃から鍛えている肉体をタクミに見せつけるチャンスだった。

 どんな反応をするのかと、挨拶代わりのジャブを放ったのだ。


 案の定というべきか、タクミは思いっきり動揺した。

 そこから先は地道に外堀を埋めていく日々だった。


 時おり『可愛い』と口にしてみた。

 日を追うにつれタクミの反応が変化していき、ジンは確かな手応えを感じた。


 バスタオル一枚でリビングをうろつくのも作戦の一環だった。

 わざとらしく牛乳を飲んで、横目でタクミの反応を調べた。


 漫画だろうが料理だろうが、タクミを褒めて褒めて褒めまくる。

 献身的な家事に対しても、ありがとう、助かる、という言葉を欠かさない。


 タクミは褒めるとやる気を出すタイプだ。

 ジンの作戦は功を奏して、タクミは朝から晩まで創作に没頭するようになった。


 ジンのため。

 コミック・バイトのため。

 その先に本当の狙いが隠されているとも知らずに。


「天野は律儀だからな。あの状態で俺から告白しても、気まずい反応をされるのは分かっていた。天野の性格上、お似合いの二人とかにこだわるタイプだろう」

「うっ……確かに……」


 タクミに必要なのは『売れない漫画家』というレッテルの返上だとジンは考えていた。

 そのためには『アオにつづる』を大成功のまま終わらせる必要があった。


「天野の自尊心が回復するまで待つ予定だった。大好物の果物が実るのをじっくり待つイメージだな」

「でも、神室さんは待つのが苦手なんじゃ……」

「天野は絶品だ! いくらでも待つ!」


 大好物にたとえられてしまった以上、ピンク色の妄想をしてしまう。


「すべては順調だった。怖いくらいな。四年間溜まりに溜まった水がダムの壁をぶち壊して一気に流れていく、そんな気がした。俺の人生は明らかに陽転したと思った」


 ところがジンの恋愛プランに初めて亀裂が入ってしまう。

 そう、水無月の登場なのである。

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