第40話 氷解していく勘違い

「天野と水無月のキスシーンはショックだったぞ。あの後、会社のトイレで泣いてしまいたい気分だった。四年間大切に育ててきた天野の初キスを横取りされてしまったからな。人生で一番の敗北感といってもオーバーではない」

「いやっ……でもっ……神室さん、明らかに怒っていましたよね⁉︎ 鬼の形相でしたから⁉︎」

「あれは泣きたいのを我慢している時の顔だ」

「は……はぁ……」


 本当だろうかと思ってしまう。

 般若のような顔つきを思い出すと、タクミの背中には粟が立つのだ。


「天野のタイプは水無月のような男なのかと思った。じゃないと唇を許すわけないだろう。いくら漫画のためとはいえ、知り合ったばかりの相手とキスしない。一目惚れでもしない限りな」


 ジンと水無月では男としてのタイプが違いすぎる。


 ジンはしっかり者で頼り甲斐のあるクールな男性。

 水無月はミステリアスな空気を漂わせた細身の美男子。


 タクミと水無月のキスシーンを目にしたジンは四年間温めてきた恋が壊れたと思ったらしい。


「え〜と……弁解というわけじゃないですが、水無月さんは美しすぎて、性別を超越しているといいますか、もはや人間離れしているといいますか、つい魔が差したといいますか」


 ジンから注がれる愛情に気づいていたら、水無月の誘いはキッパリ断った。

 その旨も伝えると、ジンの表情がにわかにほころぶ。


「逆に俺からも質問させてください。神室さんと水無月さんの関係は何ですか? 一介の編集者と漫画家ではないですよね?」

「そうだな。日付が変わってしまう前に全部説明しないといけないな」


 ジンはポケットに手を差し込むと、折れ曲がった紙を取り出した。


 チケット用の封筒である。

 中から出てきたのはタクミが買った映画の前売券二枚だ。


「天野が出ていった後、家中がピカピカなのに気づいた。そして一切の私物がなくなっていた。俺は居ても立っても居られず手がかりを探した。その最中に見つけたものだ。すべての事情が分かってしまった」


 ゴミ箱には買い物のレシートも入っていたはず。

 タクミが何時にどこにいたのか、ジンが把握しているのかと思うと、ショッピングモールで味わった苦しみや痛みが蘇ってくる。


 二人はお似合いのカップルにしか見えなかった。

 ジンのリラックスした笑顔を外で見たのは、前回のデート以来なのだから。


「天野はもしかして、俺と水無月がそういう関係なのかと疑っているのか?」

「そりゃ、まあ……仲睦まじそうでしたから。今日の水無月さん、一段と美人でしたし。あと水無月さんも神室さんに気がありそうな素振りを見せていました」

「もう一度聞くが、俺と水無月が恋人に見えたというわけか? お互いに好き合っていると?」

「そうです! 今夜だってセックスする予定なのかと!」


 ジンの手が一瞬クラクションに触れてラッパのような音が夜闇やあんを裂いた。


「それだけは断じてありえない! 俺がナオに欲情するなんて! あ、すまない、ナオというのは水無月の名前だ。あいつは俺の甥っ子なんだ。これで辻褄は合うだろうか」

「甥っ子⁉︎」

「俺と姉は十五くらい歳が離れている。昔からナオは俺によく懐いた。俺もナオを弟のように可愛がってきた。だが、親族をそういう目で見ることは断じてない。ナオもそのへんは理解している。軽薄な性格をしているナオのことだから、冗談めかして俺のことを好きとか言いそうではあるが……」

「初耳です! 二人が血縁者だったなんて!」

「当たり前だ」


 ジンと水無月が親族であることは、一部の人間にしか知らされておらず、コミック・バイト関係者だと社長と紫音の二人だけ。

 そこにタクミが加わった。


「すみません! そんな機密情報が眠っていたとは知らず、ゲスの勘繰りといいますか、二人が恋仲と疑ってしまい……」

「気にするな。俺にも落ち度はあった。あと天野の口の硬さは信頼している」


 しかし、甥との関係を隠したいものなのか。

 水無月の実力が本物であるのは疑いようがなく、不正でトップ漫画家の座に就いたと考える人はいないだろう。


「水無月から注意されたぞ。さっさとアプローチしてしまえ。二人が両想いなのは間違いない。モタモタしていると逆に拗らせるぞ、と。水無月は人の感情を読むのが得意だからな。俺が天野のことを好いていて、天野も俺のことを好いていると、一発で見抜いたらしい」

「そうだったのですか⁉︎ あの短いやり取りでバレていたなんて……」

「これほど分かりやすい人もいない、と笑っていたぞ」

「はぅ……」


 その会話は喫茶店で行われたらしい。

 ちょうどタクミが泣きながら全力疾走していた最中だろう。


 一方のジンは水無月に背中を押されて臨戦モードになった。

 そう遠くない将来タクミにプロポーズしようと腹を括ったらしい。


 まったく同じ時間、二人の心は正反対の方角を向いていたようである。


「ちなみにインテリア用品店での買い物は?」

「これも言ってなかったな。今日は水無月の母親、つまり俺の姉の誕生日なんだ。本人は五十歳になるから、プレゼントなんて要らないというが、手ぶらは寂しいだろう。そこで俺と水無月の二人で買いにいった。今夜の用事というのは姉の誕生日パーティーだ」

「そうだったのですか……」


 ジンは今日の用事をボカした。

 もちろん水無月との関係を隠すためだ。

 叔父と甥なら仲良くショッピングしても何一つ不思議はない。


「俺と水無月が結ばれることは万に一つもありえない。地球が滅んでもありえない。だから安心しろ」


 タクミは黙ったまま頷く。

 鏡を見なくても病的なほど赤面しているのが分かった。


「天野が消えてしまった後、俺は水無月に電話した。天野とまったく連絡が取れないから、不安すぎて甥にアドバイスを求めたんだ」


 ゴミ箱からBL映画の前売券が出てきた。

 その瞬間、水無月と一緒のところを見られたとジンも悟った。


「するとあいつ、何て言ったと思う? これは天が与えた試練と抜かしやがった。上手く天野と合流できたら、二人の絆は永遠となる。雨降って地固まるというやつだな。天野と合流できなかったらバッドエンド。もう二度と楽しい暮らしは戻ってこない。だから急いで探しに行くべきとアドバイスしてきた」

「それじゃ、試練の結果は……」

「合格らしい」


 ジンの大きな手がタクミの顎に触れた。

 あっと思った瞬間には唇を塞がれてしまう。


 水無月とやったお試しのキスとは全然違う。

 力強くて愛のこもった口づけをプレゼントされてしまった。


「天野にもう一度聞く。一緒に家へ戻ってくれないか? 天野が近くにいないと、眠れない夜を過ごすことになる」


 タクミは落ちてきた涙をぬぐってから、はい! と元気よく返事した。

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