第31話 愛のおまじない
食事を済ませた後はジン、タクミの順に入浴した。
タクミが風呂から上がってくると、ジンはソファに腰かけており、テレビを観るでもなく、スマホをいじくるでもなく、冷蔵庫の一点を見つめていたので『さては、お酒が飲みたいのか』と分かってしまった。
ジンは無理強いしてこない。
タクミに酒を飲ませたら漫画に響くと考えているらしい。
元来お酒は好きだろうし、時々お酌するという約束だから、
「よろしければ一缶開けますか?」
とタクミから水を向けるようにしている。
曇っていたジンの表情が一瞬にして晴れたのは言うまでもない。
「微アルコールのビールを補充してある。冷蔵庫から取ってくれ」
タクミがドアポケットをのぞくと、一時間前は無かったはずの缶ビールが二本入っていた。
風呂上がりのジンが買いに行くシーンを想像して笑ってしまう。
「はい、どうぞ」
「一週間、お疲れ様だ。乾杯」
「あ、今日は金曜日なのですね」
タクミは引きこもり生活のせいで曜日感覚を失って久しい。
アパート暮らししていた時は、月曜と木曜は燃えるゴミの日という覚え方をしていた。
ジンのマンションは二十四時間ゴミ出し可能なので覚える必要がないのだ。
便利な暮らしというやつは人を堕落させるらしい。
「漫画の調子はどうだ? もう第四話の下書きだろう?」
「怖いくらい順調です。前二作より読者が多いですから。良い意味でプレッシャーになっています」
「そうか。来年の今頃が楽しみだな。天野の作品ならきっと伸びてくれる」
来年というキーワードが胸を刺してくる。
同棲が解消されているのかと思うと、缶をぺこっと凹ませてしまった。
「神室さんの調子はどうですか?」
「一難去ってまた一難だよ。他社との調整に振り回されている。コミック・バイトの成長スピードに社員の補充が追い付いていない。アルバイトで手伝ってもらっていた人を正社員に切り替えたりして何とか乗り切っている」
一見するとピンチのようであるが、ジンの横顔には英気がみなぎっている。
「あの……神室さん……知り合いの方が若い漫画家向けの寮を管理している、という話を以前にされていましたよね?」
「ああ、そんな話があったな」
「次に空くのが何ヶ月先なのか、問い合わせていただけませんか?」
今度はジンの缶がぺこっと凹んだ。
思いっきり見つめられると、胸の痛みが増してしまう。
「どうした、急に?」
「いつまでも間借りするわけにはいきません」
ジンの顔を直視するのが怖くて、シャツの胸元を握ってしまう。
「十分すぎるくらいお世話になりました。神室さんのフォローがあったからBLの連載が取れました。貯金を取り崩す生活ともおさらばできますし、そろそろ次の住居について真剣に考える必要があります」
「待ってくれ。俺は迷惑だなんて思っていない。むしろ助かっている。天野が家事をやってくれるから、俺も自分の仕事に専念できる」
本当だろうか。
タクミが負い目を感じないよう、ジンは優しい嘘をついているかもしれない。
「すぐに出て行きたい理由でもあるのか?」
「いや……そういうわけでは……」
むしろ永遠にいたいのが本音だ。
「神室さんの好意に甘えすぎると、自分がダメな人間になる気がします。また失敗しても、神室さんが面倒を見てくれるって期待しそうで……」
「ここでの暮らしが嫌なわけじゃないんだな?」
「もちろんですよ!」
勢い余ってジンの方に寄りかかってしまった。
自分の間抜けさを呪いたくなったが、体はすでに逞しい胸板にキャッチされている。
「それを聞いて安心した。びっくりさせるなよ」
大きな手がタクミの肩を抱いてくる。
次の瞬間、信じられないことが起こった。
ジンの唇がタクミの額に触れたのである。
チュッと優しいキスを落としてくる。
微アルコールなのに酔っているのだろうか。
タクミの心臓が狂ったようにペースを上げまくる。
「あの……神室さん……」
「ん? 知らないのか?」
もう一度額にキスされた。
ジンは確信犯でやっている。
「おまじないだ。海外ドラマでよくあるだろう。相手の無事や成功を祈るやつが」
「あ……ああ……おまじないですか?」
「何だ、本気にしたのか?」
ジンの目がいたずらっぽく笑ったので、別の意味で赤面してしまった。
「びっくりさせないでくださいよ!」
「水無月にキスされただろう。あの時の天野の表情が面白かったからな。もう一度見てみたくなった」
「もうっ! 意地悪なのですから!」
少女みたいに体をよじるタクミのことを、ジンは微笑ましそうに見ている。
びっくりした。
一瞬、好意のキスかと思った。
そんなわけない。
ジンはノンケの人間なのだ。
水無月のような美男子が相手ならまだしも、タクミのような平凡男子に興味を持つわけない。
「おい、天野。天狗になるな」
「何ですか⁉︎ 急に⁉︎」
「転落する時は一瞬で転落するのがこの業界の特徴だ。もう成功した気になるな。一寸先は闇だからな。お前がこの家を出ていって、即転落したのでは俺も寝覚めが悪い。分かるよな?」
急いで出ていこうとするな。
もう少し地力をつけろ。
ジンの主張を理解したタクミは強く頷く。
「まだ修行の途中ってことですよね?」
「そうだ。紫音さんは天野のことを褒めていたが、まだ紫音さんを唸らせるレベルには至っていない。今は成長することだけに注力しろ。家の心配なんか忘れてしまえ」
ジンが残りのビールを一気飲みしたので、タクミも真似しておいた。
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