第32話 お前の汁を搾らせろ
翌朝、タクミが起床してくると、ジンが外出の支度をしていた。
ワックスを馴染ませた髪を横に流している。
手首と首のところに香水を振りまいている。
鏡の前に立ち、眉や髭のチェックも抜かりない。
朝から格好よさ全開のジンが見られるなんて眼福といえよう。
「おはようございます。パンを焼きますが、神室さんは何枚食べますか?」
「おはよう。二枚焼いてくれると助かる」
パンをトースターに突っ込む。
お皿とカップを並べて、冷蔵庫からバターを取り出した。
いつもパンが焼けるまでの間にコーヒーを淹れている。
ジンの家にはコーヒーメーカーがあり、毎回豆を
コーヒー専門店に入るとカフェイン中毒者にはたまらない匂いに襲われるが、あれは
給水タンクの水が加熱されて、コーヒーの粉に染み込み、茶色くなってポットに落ちてくる。
コーヒー一杯分は溜まった時、トースターが焼き上がりの音を上げた。
ジンのパンを取り出してタクミのパンも焼く。
二人暮らしするようになってから、朝食はエネルギー補給の時間というより、会話するための時間と化していた。
「すまない、天野。俺は一日外出してくる。だから今日の夕食はお前一人で済ませてくれ。出前を取ってくれてもいいし、たまには高価な店で外食するといい。天野は頑張っているのだから」
「分かりました。何か考えておきます」
タクミは貧乏性だから、一ヶ月ぶりにカップ麺が食べたいとか、ジンの提案と真逆のことを考えてしまう。
「お仕事ですか?」
「完全にプライベートだ。ちょっと大切な用事でな」
ジンの声がわずかに弾んだのをタクミは聞き逃さなかった。
彼女とデートだろうか。
ありえない気がするが、絶対とは言い切れない。
ジンは普段からお洒落だが、今日は三割増で格好いい。
タクミが知らないだけで仕事関係の女性と親交があるのかもしれない。
もちろん文句を言う筋合いはない。
ジンが素敵な女性と結婚するなら、盛大な拍手で祝ってあげたい。
花嫁に向かって『神室さんを幸せにしてあげてください!』と叫びたい。
きっと風呂場で泣くだろうが。
「そうだ。神室さんに変な質問しちゃってもいいですか?」
「おう、何でも言ってみろ」
パンを飲み下したジンがコーヒーに口をつける。
タクミが描いている『アオにつづる』は主人公が小説家だ。
シーンによっては編集者とのやり取りも発生する。
「俺って未だに編集さんの気持ちが分かっていなくて。ポジション的には板挟みになることが多いじゃないですか。神室さんの主観でいいので、嬉しい瞬間と悲しい瞬間を教えてくれませんか?」
「インタビューみたいな質問だな。嬉しいと悲しいか」
「どうしても知っておきたくて」
意図の半分は、ジンに対する理解を深めたい、という我欲だったりするのだが、それは内緒である。
「自分の手がけた企画や自分のスカウトしてきた漫画家が成功したら嬉しい。悲しい瞬間はこれと真逆だな。企画が失敗したら悲しいし、漫画家が不成功に終わると悲しい」
コミック・バイトを立ち上げて四年以上経った。
水無月のような成功者を輩出してきた一方、原石が原石のまま輝けずに終わることも多かった。
「見たいものじゃないな。漫画家がペンを折る瞬間というのは。もしこいつが俺の身内だったら、という目で見るようにしている。自分の弟や妹が夢に向かって努力しているなら、無限に応援したくなるだろう。諦めろ、とは絶対に言いたくない。でも最後の決定は本人に任せる。本人だけの人生だからな」
ジンは自分のことを酷い奴と呼んだ。
「若い人の夢を搾取している。それは否定しない。天野から搾取しているし、水無月からも搾取している。それが俺の仕事であり、俺たちの使命だと思っている」
タクミが反応に困っていると、獰猛な目を向けられる。
「だから、もっと搾らせろ。天野の中には美味しい汁が詰まっている。俺はそれを世間の読者に届けたい。なるべく新鮮な内に」
真面目な話をしているのに、エロティシズムなことを妄想しちゃうのは、純粋にタクミの頭がエロいからだろうか。
「すまない、変な話をしちゃったな。これで質問の答えになっているか?」
「ええ、もちろん。十分です」
タクミもパンを平らげた。
ジンが珍しく朝からテレビをつける。
何を観るのかと思いきや、ニュース番組の天気予報。
『今日は全国的にどこも晴れるでしょう』と気象予報士の女性が楽しそうに話している。
やっぱりデートだろうか。
同棲しているとはいえ恋人じゃないタクミとしては、気にならないフリするのが精一杯だ。
「それじゃ、俺は出かける。天野のことを応援している」
「はい、お気をつけて」
メイドさんみたいに玄関まで見送った。
すると頭クシャクシャされるご褒美をもらった。
また一つジンについて詳しくなった。
駆け出し漫画家のことを弟や妹のように思っているらしい。
ジンの弟か。
悪くない響きだ。
優しくて強いお兄ちゃんだろう。
困った時はヒーローみたいに助けてくれそうだ。
一通りの家事を済ませてから、漫画の続きに取りかかるタクミの顔には、幸せなオーラがみなぎっていた。
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