第30話 気になる二人の関係
『八時半には帰れそうだ』とジンから連絡があった。
『承知です』とタクミはメッセージを返す。
ジンは八時から九時の間に帰ってくることが多い。
仕事が残っていたとしても家に持って帰ってくるケースが多く、十時を過ぎて帰宅するのは月に二回くらいだ。
腕組みしながらパソコンの画面を見つめる。
そんなジンの姿は見ていて飽きない。
リビングで一緒の時間を過ごすのが好き。
『すまない、天野、紅茶を淹れてくれ』と指示をもらうのも好き。
この家に一生いられたら楽しいだろうな。
タクミは最近、叶わないことを夢想しつつあった。
『アオにつづる』は好調だ。
紫音が教えてくれたように、まとまった原稿料が口座に振り込まれるだろう。
人気が出るのは嬉しいはずなのに、このマンションから離れる日が近づいているのかと思うと、内心は穏やかじゃなかった。
ジンの近くに住みたい、という気持ちはある。
もしかしたら食事に誘われるかもしれない。
しかし高級住宅街なのがネック。
そもそも単身者向けアパートが少ないし、あったとしても高級取りのサラリーマンしか入居できないから、タクミには資格がなかった。
となると駆け出し漫画家のための寮しか残されていない。
仕方ないと諦めのため息をついた時、ガスコンロが電子音を上げる。
今夜のメニューはスープカレーだ。
カレーのスパイスには疲労回復効果があると聞いて、でも普通のカレーじゃつまらないと思い、スープカレーに決めた。
ジンは一口が大きいから、具材のニンジン、ジャガイモ、ナスは大きめにカットしている。
色彩を気にして真っ赤なパプリカも買っておいた。
カボチャとオクラは少量パックが売られており助かった。
今夜は飲み物も用意している。
自家製のラッシーだ。
マンゴー味のジャムを足して軽くアレンジしておいた。
時計は八時二十分を示している。
気分だけはご主人様の帰りを待つワンちゃんといえよう。
使い終わった包丁やまな板を洗っているとドアが開いた。
小雨が降っているらしく、ジンのジャケットの肩口は少し濡れていた。
「お帰りなさい」
「ただいま。今夜も美味しそうな匂いだな」
「スープカレーです」
「お、いいな」
まるで新婚だな、と言ってくれた夜のことは克明に覚えている。
あれから四ヶ月くらい経ったから、少し慣れた夫婦だろうか。
ジンが手を洗う間にスープカレーを盛りつけておく。
「お代わりがあります。たくさん食べてください」
お米は黄色いターメリックライスにしてある。
市販の粉が売られており、家庭の炊飯器で作れるのだ。
「ありがとう。天野のお陰で毎日の楽しみが増えたよ」
ジンは相変わらず優しいから、毎回タクミの料理を褒めてくれる。
「カボチャが好きと神室さんがおっしゃっていましたから。入れてみました」
「気が利くな」
二人でいただきますをする。
一口食べたジンが感心するような声を上げた。
「本格的な辛さだな。自分で調整できるのか?」
「はい、チリパウダーが付いています。それで自由に調整します。今回はちょっと辛めにしてみました。神室さんは最近、お疲れのようなので」
「美味しい。もう元気が出てきた」
ジンは食べ盛りの子供みたいにパクパクと口に入れていく。
タクミが半分も食べていないのにお代わりを要求してきた。
「水無月と会ったのは今日が初めてなのか?」
「そうです。俺は紫音さんとの打ち合わせでした。水無月さんは偶然近くを通りがかったらしく、コミック・バイトに顔を出してみたそうです」
「オフィス街なんだけどな。偶然なんて嘘くさいな」
「そうでしょうか?」
ジンは骨付きチキンを口へ放り込むと、身の部分だけを器用に食べてしまう。
「昔から何を考えているのか分からない男だ、水無月は」
「でも、スカウトしてきたのは神室さんですよね」
「そうだな」
「どういった経緯で知り合ったのですか?」
スープカレーを食べるジンの手が一瞬止まった。
「知人の知人みたいなものだ。水無月が漫画を描くのは昔から知っていた。商業で通用すると思ったから声をかけた」
二人の関係をボカされた気がするのは、タクミの思い過ごしだろうか。
「神室さんの目から見ても水無月さんは優秀な描き手でしょうか?」
「だろうな。数字が出ているからな。実力があるのは認めざるを得ない。性格の面でいくつか問題はあるのだが……」
昼間のキスを指していると分かり唇がヒリヒリした。
「水無月は漫画が大好きなんだ。自分の描きたい作品を描いている。まさにアマチュアの発想だよ。それがなぜかプロの世界で通用してしまう。一個一個の能力が高い証拠だろうな。
「紫音さんも似たことを言っていました」
「どうした? 水無月に嫉妬か?」
タクミは首を横に振る。
「いえ、水無月さんは本当にすごいですから。積み上げてきた努力の量が違います。同じ漫画家なので分かります。水無月さんは俺の二倍くらい絵を描いている人間です」
「天野にしては珍しく弱気じゃないか」
「だって……」
漫画だけじゃない。
ルックスや人格の面でも水無月に敗北している。
自分が恥ずかしい生き物に思えてしまう。
「水無月さんにはオーラがあるんです。別の分野でも成功する人だと思います。俳優とか、小説家とか。人としての格が違うなって」
「それ、水無月が言ったのか?」
「いえ、俺の勝手な思い込みですが……」
ジンはスプーンの先端を向けてきた。
「水無月には独特のオーラがある。それは認める。だが、天野にもオーラはある。でなければコミック・バイトに勧誘しなかった」
「本当にそう思いますか?」
「もちろん。同人イベント会場で見つけて、こいつが欲しいと思った。もちろん作品は良かった。それと同じくらい天野のオーラも良かった。だから目をつけた。あれから四年以上経ったが、俺の考えは変わっていない」
嬉しさのあまりジャガイモをスープに落としてしまう。
「水無月には欠けている物を天野は持っている。だから卑屈になるな。これは俺からのお願いだ」
「はい!」
スープカレーを一滴残さず食べ切った。
お代わりのために席を立つと、ジンが三杯目を要求してくる。
「こんなに美味しいスープカレーは初めてかもしれない。いくらでも食えるな。マンゴーラッシーもよく合う」
カレーが付着した人差し指をタクミはぺろりと舐めた。
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