第29話 言い訳と鬼の形相
生まれて初めてキスをした。
相手は三歳下のきれいな男性だった。
漫画のキスシーンなら今まで腐るほど目にしてきた。
心から羽が生えたみたいとか、世界がぱあっと色づいてとか、陶酔感に襲われる描写が多かった。
ごく一部の例外を除き、キスは素晴らしいものとして扱われていた。
けれども全然違う。
まず湧いてきたのは安心感。
二十六年も守ってきた『キス未経験』というレッテルを返納できた。
少しだけ世間知らずの子供から卒業した気になれた。
続いて湧いてきたのは罪悪感。
初キスという本来ならば好きな相手に捧げるべきものを、出会ったばかりの男性に捧げてしまった。
しかも相手は性について熟達していた。
キスした唇に触れてみる。
心地いい痺れを帯びている。
本当にキスしちゃった。
漫画家として成長するために唇を犠牲にしたのだ。
これで成功に一歩近づけたと油断した時、あってはならない現象に見舞われた。
視界にジンが映ったのである。
片手に缶コーヒーを持ったまま鬼の形相になっている。
ジンは喜怒哀楽を顔に出さない方だから、かなり不機嫌なのは一目瞭然だった。
その証拠に缶コーヒーを持つ手が震えている。
理由は一つしかない。
タクミと水無月がキスしたから。
会社という神聖な場所で破廉恥な遊びに手を出したからに他ならない。
違うんです! と言いかけて喉が凍りつく。
一体、何が違うというのか。
水無月とキスしたのは紛うことなきリアル。
否定する気もなければ、弁解する余地もない。
潮がいっぺんに引いていくみたいに頬から熱が失せ、硬くなっていくのが分かった。
辛かった。
泣きたかった。
タクミが本当にキスしたかった相手はジンなのだ。
憧れの人であるジンが冷たい目でタクミのことを見下ろしている。
ゲイだと思われただろうか。
いや、相手が水無月だから戯れと思うに違いない。
一条の光を見つけた瞬間、急に元気が湧いてきた。
キスしたのは本意ではなかった。
水無月に誘われて魔が差した。
シナリオを組み立てる。
小学生が思いつきそうな言い訳という自覚はあるが、現実に即している。
タクミから誘ったわけでもないし、タクミが会社でキスしない人間であることくらい、ジンなら深く理解している。
心の電波を鋭敏にキャッチしたわけじゃないだろうが、水無月はケロッとした表情でジンに声をかける。
「ちょっと神室さん。人のキスシーンを勝手にのぞかないでくださいよ。これは良い漫画を描くための儀式なのですから」
「水無月の方から誘ったのか?」
「当たり前じゃないですか」
よしっ、と内心でガッツポーズする。
家で詮索されても『水無月の勢いに負けて』と言い訳できるだろう。
「びっくりした。いや、漫画家同士ならそういう気分になるか。まさか天野と水無月がな」
「もしかして嫉妬ですか? 私に天野さんを取られて悔しいのですか?」
「抜かせ。お前が尻軽なのは知っている」
ジンがやれやれと首を振る。
「神室さんも私とキスしたくなりましたか?」
「アホか。誰がお前なんかとキスするか」
「え〜。酷いな〜」
緊迫していた空気がみるみる和らいでいき、タクミも久しぶりに笑えた。
「ここは会社だ。次からは違う場所でやれ」
それだけを言い残すとジンは去ってしまった。
ややあってゴミ箱に缶を捨てる音が聞こえる。
「ふぅ、びっくりしました。何とか見逃してもらえましたね」
水無月が胸をなで下ろす。
「いや、本当に……。毛穴という毛穴から変な汗が出るところでした」
タクミは意味もなく自分の腕をさする。
「でも良いものが見られました。神室さんでもあんな表情をするなんて。あの二人、あんなに仲が良かったっけ? みたいなことを想像しているはずです」
「どうでしょうか……」
水無月はちっとも懲りた様子がなく、強いなぁ、と感心してしまう。
「それで? 初めて男とキスした感想は?」
「俺の知っている言葉では上手く表現できませんね」
「言葉じゃ表現できない。それも立派な感想じゃないですか」
二人は同じタイミングで苦笑する。
それから水無月とは漫画のことについて話した。
タクミが『プリズン・デイズ』のワンシーンを表示させて、
「ここの雨のシーン、どうやったら表現できるのですか?」
と質問したら、水無月は目の前で実際に描いてくれた。
シャワーを浴びるとか、川に転げ落ちるとか、水無月は水が絡むシーンが上手いのだ。
まるで芸術作品みたいに水滴を操る。
「昔ね、ずっと川を見ていたのですよ。公園にあるような人工的な川です。これをどうやったら漫画に落とし込めるのか考えるようになって、リアルに描写するのも違うと思って……。すると小さい男の子が川に落ちたのですよ。私の目の前で。それはもう派手に。大きな水柱を見た時、これだ! と閃きました。人間が川に落っこちちゃう瞬間が、もっとも美しいのです。私にとって川は人が溺れるためにあります。ちょっとした人生哲学が芽生えましたね」
漫画について語る水無月は本当に楽しそうな顔をする。
「すみません、長々と」
「いえ、参考になります」
コミック・バイトからの帰り道、水無月とキスした唇にもう一度触れてみた。
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