第20話 全裸を見ちゃった
「すまない、天野。俺に食後の紅茶を淹れてくれないか?」
「お安い御用です」
タクミはティーバッグで作った紅茶をジンの前に置いた。
砂糖は要らないが、コーヒーフレッシュを一個足すのがジンの飲み方である。
当たり前のようにリビングで仕事用パソコンを立ち上げるジン。
タクミはお風呂場を洗って、給湯ボタンを押してから、ネーム原稿の続きに取りかかった。
ジンは仕事する時、パソコンの画面を睨むように見つめる。
真剣勝負のサムライみたいで格好いいな、と思ってしまう。
二人きりのリビングに無機質な作業ノイズだけが響いた。
一時間くらい経過した時だろうか。
ジンがすっかり
「天野は風呂に入らないのか?」
と問いかけてくる。
タクミは使用済のカップを回収しながら、
「神室さんがお先に入ってください」
と返事する。
間借りさせてもらっている立場なので、ジンに一番風呂を譲るようにしている。
ジンもタクミが頑固なことを知っているから、分かった、とパソコンを畳んだ。
ティーカップを洗いながら、なぜか笑ってしまう。
まるで新婚だな。
あのセリフが嬉しかった。
ジンと結婚したいとか、BLチックな妄想をしたわけじゃないが、ジンの暮らしに貢献できている証拠かと思うと、自分の居場所を見つけた気がして、自然とニヤけてしまう。
もちろん、この生活は仮のもの。
コミカライズを成功させて、一人前にお金を稼いで、一人暮らしを再開させるのが目標である。
ジンだって三十五歳なのだ。
そろそろ結婚相手を探してみようか、と思うかもしれない。
いざ女性を家に連れてきた時、タクミが同居していたのでは、せっかくの高級マンションが台無しだろう。
タオルで手の水気を拭ってから、冷蔵庫の中身をチェックする。
明日はスーパーで牛乳とミネラルウォーターを買った方が良さそうだ。
ふいに風呂場からジンの声が聞こえた。
何だろう? と思いつつ脱衣所のドアを開ける。
「すまない、天野。洗顔フォームが空っぽになってしまった。新しいのが洗面台の下に入っているから、取ってくれないか」
「はい! 承知です!」
何がどこに置かれているのか、五日間でかなり把握したタクミは、すぐに新しい洗顔フォームを発見した。
「ありました!」
ジンに渡すべく振り返ったのだが、ひゃっ⁉︎ と女の子みたいな声を出してしまう。
お風呂のドアが全開になっていたのである。
腰のあたりに湯煙のモザイクがかかっているが、全裸のジンがそこに立っている。
髪から水が垂れており、いつもの二割増しで格好いい。
シャンプーのCMから飛び出してきた男性俳優と言われても納得だろう。
ジンの胸板が逞しいのは、知識として知っていたが、いざ実物を目にすると『漫画のキャラクター並みに完璧なボディだよな』という感想しか出てこない。
しかもジンの乳首を見てしまった。
コミック・バイトの女性社員に知られたら嫉妬されるだろうな、と頓珍漢な心配をしてしまう。
自分が男に生まれたことに感謝しつつ、どうぞ、と洗顔フォームを差し出す。
「ありがとう。天野がいてくれて助かった」
「いえ……」
ジンはどう思っているのだろうか。
タクミに全裸を見られても何とも思わないか。
そりゃ、そうだ。
男なら一緒に銭湯に入ったりする。
いちいち気にしていたら、日本じゃ生活できない。
でも、ヤバい……。
『漫画の参考にしたいので、神室さんのお体を拝見させていただけませんか⁉︎』という変なお願いをしちゃいそうで怖い。
ジンは優しいから『三分だけな。風邪は引きたくない』とOKしてくれそう。
それだけはダメ。
私利私欲のためにジンの優しさを利用するなんて、絶対に許されることじゃない。
変なことを考えすぎた反動なのか、それ以降は作業に少しも集中できなかった。
線がぐにゃぐにゃする。
勢い余ってコマからはみ出す。
ネーム原稿なので、絵のクオリティは要求されないが、いい加減にも程があるだろう。
不調も不調だ。
ジンの全裸を見たせいだ。
でも、BL漫画家としてやっていく以上、男性キャラクターの全裸なんて大量に描いていく宿命を背負っているわけであって……。
「どうしよう……無理かも」
タクミは頭を抱えた。
ジンのことが少し好きかもしれない。
原因は分かっている。
BLの楽しさを知ったせいだ。
タクミの頭は一時的におかしくなっている。
そうじゃないと説明できない。
ジンとキスしたいとか、一緒にお風呂に入りたいとか、ストレートな欲求とも違う。
手の届かないアイドルに恋する感じ。
NL系のラブコメでもあるじゃないか。
うっかり全裸を見ちゃって、相手のことが好きになるパターン。
それが同性のジン相手に起こったらしい。
これはタクミ一人の問題じゃない。
もし同居人から偶像崇拝されていることを知ったら、ジンも不気味に思って、タクミを追い出そうとするかもしれない。
間借りできたのは、タクミが男だから。
どう転んでも恋愛に発展しないから、ジンも声をかけてくれたはず。
ジンに惚れてしまう。
それは親切に対する裏切りだろう。
「おい、天野」
「ひゃっ……ひゃい⁉︎」
「大丈夫か?」
顔を上げると腰にバスタオルを巻いたジンが立っていた。
エロ本でも隠す子供みたいに大慌てでタブレット端末を伏せてしまう。
「街中まで出かけたい、という話をしていたよな。漫画の参考にするため、私立大学のキャンパスを見たいのだろう。明日、俺は仕事がない。せっかくだから、一緒に出かけてみるか」
「あ……ありがとう……ございます」
タクミの気持ちを知ってか知らずか、風呂上がりのジンは豪快に牛乳を飲んでから、じゃあ決まりだな、と笑いかけてきた。
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