第19話 まるで新婚だな
ジンの家に住むようになって五日が過ぎた。
高級マンションの暮らしは慣れないし、入居者とエレベーターで出くわした時は緊張するが、いったん漫画を描き始めると関係なかった。
コミカライズ作業は順調に進んでいる。
まず小説の何ページから何ページを一話にするか決める必要があった。
紫音とビデオ会議で打ち合わせして、三話分の範囲を決めた。
それが終わったらネーム原稿に取りかかる。
小説と漫画ではテンポが圧倒的に違う。
たとえば読者が一分間にキャッチする情報量。
小説だと、主人公がカフェに入って、席に座って、メニューを広げて、あれこれ迷って、店員を呼んで、オーダーして、料理が出てきて、一口食べて、感想をこぼす……これで見開き二ページを平気で使ったりする。
人によっては読むのに一分かかるだろう。
漫画でも同様のシーンは二ページで描けたりする。
読者が費やす時間は五秒から十秒くらいじゃないだろうか。
省けるところは省く。
本筋に関係ない情報は目立たなくさせる。
どれが正解というルールはなく、コミカライズ独特の難しさに直面していた。
テンポを上げればいい、という単純な話でもない。
たとえば通りすがりの大学生の会話とか。
『就活めんどくせ〜』の一言が作品のムードに響いてきたりする。
だったら削らずに残すか、という判断に落ち着く。
タクミを一番困らせたのが、長すぎるセリフの扱いだ。
この原作者さん、言い回しに強いこだわりがあるらしく、三百字を超えるような長文セリフがポンポン出てくる。
しかもキャラクターの性格を決定付ける内容だったりするから、無闇に削るわけにもいかない。
全文コピーしたら確実に漫画が死ぬ。
それだけは断言できる。
セリフの厄介さは紫音も理解してくれており、
『とりあえず天野くんの直感でやってみなよ。最後に私の方で整えてみるからさ』
とフォローしてくれた。
小説のメリットは自由さである反面、小説のデメリットも自由さだよな、と文豪みたいなことを考えてしまう。
グラスの水を一口飲んでから、描きかけの原稿を頭からチェックしていると、キッチンの方からピピッと電子音が聞こえた。
実はジンのために晩飯を用意しているのである。
カレーだったり、焼き魚だったり、毎日何かしら作るようにしている。
ジンはこれまでスーパーやコンビニで惣菜を調達してきた。
タクミの方から志願すると『それは助かる』と二つ返事でOKしてくれた。
ちなみに今日のメニューは牛丼。
玉ネギをカットして、牛バラ肉と一緒に煮込んで、市販のタレで味付けするだけの簡単レシピである。
生卵と野菜サラダの準備も抜かりない。
八時を過ぎた頃にジンからメッセージが送られてきて、三十分もしない内に玄関の方から音がした。
「いい匂いだな。今夜は肉ジャガか?」
「お疲れさまです。すぐにご飯の支度をしますね」
タクミが器に盛り付けてから提供すると、
「牛丼じゃないか。とても旨そうだ」
ジンの表情がいっぺんに
タクミの人生で牛丼が嫌いな男性に出会ったことはない。
「生卵と野菜サラダもあります」
「気が利くな、天野は」
ジンが冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
当たり前のようにグラスを二つ持ってきて、片方をタクミの前に置く。
「天野も飲むだろう?」
「ですが、俺はネーム原稿の残りを仕上げないと……」
「そういうと思って低アルコールのビールを買ってある」
「いつの間に⁉︎」
アルコール度数が一パーセント未満のやつだ。
これなら食後の作業に支障はないだろう。
「乾杯」
二人のグラスがカチンとぶつかる。
「天野の作業はどうだ? 順調か?」
「はい、明日の午前には一回紫音さんに提出できそうです」
「それは良いニュースだ」
牛丼を一口頬張ったジンが、うまい、とこぼす。
「どうして牛丼にしようと思ったんだ? CMにでも触発されたのか?」
「実はですね……」
作品のワンシーンに牛丼屋が登場するのである。
「小説の描写を見る限り、けっこう肉が載っているのですよ。神室さんもご存知かと思いますが、牛丼屋の具って、物足りないくらいの量しか載っていないのが実情じゃないですか」
「そうだな。二倍か三倍の肉が欲しくなるよな。牛肉が値上がりしたせいか、昔より量が減ったような気がする」
「そうです、そうです」
問題は漫画で描写する時だ。
お肉たっぷりの牛丼にするのか。
原作は無視して、お肉が少ない牛丼にするのか。
タクミの匙加減一つで決まっちゃうわけである。
「待て待て、原作では並盛りをオーダーしているのか?」
「そうです。有名チェーン店の並盛りです」
「ふむ」
ジンが腕組みして考え込む。
そしてポツリと……。
「天野は真面目だな。お肉の量で悩むなんて」
笑われてしまった。
タクミは照れを隠すようにビールを飲む。
「だって仕方ないじゃないですか。原作が矛盾しているのです。牛丼の並盛りをオーダーしたら、物足りないくらいのお肉しか載っておらず、男子大学生が満足できるはずありません」
「
「お代わりをお持ちしましょうか?」
「おう、頼む」
ジンは昼食をクッキー数枚しか食べていないらしい。
よっぽどお腹が空いていたのか、二杯目もガツガツと平らげてしまう。
「これは新田の話なのだが、遠方に住んでいる婚約者が遊びにきた時、ご飯を作ってくれるそうだ。それを聞いて、ちょっと羨ましいと思った」
ジンが美味しそうにビールを飲む。
「家で温かいご飯が待っているなんて、まるで新婚だな」
「なっ……⁉︎」
びっくりするあまり、タクミは口の中身を吹きそうになった。
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