第43話 本気で人を好きになる

『むしろ長風呂してくれ』

 ジンのセリフの意味は、寝室に入ると分かった。


 ベッド脇のテーブルに加湿器らしき機械が置かれている。

 タジン鍋のような山形やまなりのシルエットで、透明なプラスチックの本体がカラフルに発光している。

 ライトが赤、オレンジ、黄色、緑、青、藍、紫の順に切り替わるから虹の七色をイメージしているのだろう。


 香り付きのミストが出ていた。

 外観のせいで火山のミニチュアに見えなくもない。

 部屋に満ちている清涼感ある香りは、この機械が発生源のようである。


 小洒落たインテリアをジンが秘蔵していたなんて知らなかった。

 ベッドに腰かけたタクミは、噴煙のようなミストに手をかざして目を細める。


 マットレスの反発が心地いい。

 貧乏人のタクミでも、これが高級ベッドなのだと分かる。


 ジム通いしていることが証明している通り、ジンは睡眠や運動に対して強い拘りがあり、金に糸目を付けないと自分で話していた。

 二十代の頃、心身の不調に悩まされた時期があり、健康マニアに目覚めたそうだ。


「失礼します」


 ここにいない持ち主に断ってから横になってみた。

 ひんやりしたシーツの肌触りに感動してしまい、うつ伏せになったり、横向きになったり、色んなポーズを試してみた。


 わずかにジンの匂いがする。

 シャンプーや洗剤の香りに混じって、確かに人間の匂いがするのだ。


 何て幸せな時間なのだろうか。

 犬になったつもりで鼻をクンクンさせてみる。

 神室さん、神室さん、と小声で連呼してしまう。


 セックスに対して人並みに興味はあった。

 こんな女性と一夜を共にできたら素敵だろうな、と妄想したことも学生時代は何回かある。


 でも機会は一度も巡ってこなかった。

 タクミは生まれつき小心者で、自分から積極的に話しかけるのが苦手なのだ。


 内向的な性格を悪いと思ったことはないが、こと恋愛においては不利に働くのを認めざるをえない。


 もしかしたら……万に一つくらい……。

 十年に一回くらいなら誰かと親密になれるチャンスがあるかもしれない。


 淡い期待を抱いて生きてきた。

 その願いがとうとう実を結ぼうとしている。

 しかも相手は神室ジンという、欠点を見つけるのが難しいイケメン男子で、三十五歳という男盛りでもあった。


 タクミが唯一愛してしまった男性。

 その男性が唯一愛したのもタクミ。


 これは運命じゃないだろうか。

 捧げてしまいたい、身も心も、人生の残り時間も、何もかも。

『本気で人を好きになる』が何を意味しているのか、今なら自分の言葉で説明できる。


 いつか指輪を交換するのだろうか。

 その時はお金を半分出したい。


 プライドが高いジンのことだから『年上の俺が全額出すべきだろう』と主張してきそうではあるが、パートナーである以上、フェアにできる部分はフェアにしたかった。


 食費、光熱費とか。

 そのためにもタクミが一人前に稼がないと。

 漫画の実力を今よりもっと伸ばす必要がある。


 ひたすら描くしかないだろう。

 インプットもアウトプットもさらに増やす。

 周りの先駆者から技術を吸収する。


『誰かのために頑張る時、天野は途方もないパワーを発揮する』


 あの言葉が嬉しかった。

 ジンのためなら何回だって自分の殻を破れそうな気がした。


 この四年間が証明している。

 ジンがいたからプロの世界で戦えた。

 ジンが必要としてくれる限り、タクミは諦めることを知らない。


「努力が報われる時って、本当に一瞬なんだな」


 天井に向かって手を伸ばしていると、風呂場のドアを開閉する音が聞こえた。

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