第44話 互いの呼び方

 ドライヤーで髪を乾かす音や、ガラスの食器が擦れる音を、タクミは背中で聞いていた。


 体は疲れている。

 なのに眠気はまったく湧いてこない。


 栄養ドリンクを一回に三本飲んだくらいの覚醒状態で、平気で朝まで起きていられそうだな、と怖い心配をしてしまう。


 とうとう寝室のドアが開き、生唾を飲み込んだ。

 ジンは入口に立ったまま中々近づいてこない。


「もしかして、寝てしまったのか?」


 そんなわけない。

 言葉を返す代わりに体をよじった。


「いいな。天野は華奢だから。ベッドがいつもより広く見える」


 ジンがベッドの端に腰かけると、体重でスプリングが大きく揺れた。

 タクミは引き寄せられるみたいに寝返りを打つ。


「なんだ、起きていたのか?」

「当たり前です。こんな状態じゃ寝られそうにないです」

「こんな状態って? どんな状態だ?」

「それは……」


 意地悪なんじゃ……。

 恥ずかしくて顔を背けてしまう。


 ジンの手が頭に触れてきた。

 下にスライドして、今度は唇にタッチしてくる。


「天野の唇はいいな。形がきれいだ。少しも荒れていない」

「ッ……⁉︎ 唇なんて褒められたの、生まれて初めてです」

「ああ、俺も誰かの唇を褒めたのは、生まれて初めてだ」


 初めて同士だな。

 ジンがニヤリと獰猛な笑みを向けてくる。


 タクミはベッドの端に寄り、中央のスペースをジンに譲った。

 あれほど大きかったクイーンサイズのベッドが、二人になった途端、ちょうど良い広さに思えてくる。


「一人で寝るには大きすぎやしませんか?」

「そうだな。いつか天野を隣に寝させたい。そんな妄想を四年間してきた。今日ついに現実となった」

「お待たせして申し訳ありません」

「謝るな。待つ時間も楽しかった」


 抱き寄せられて二人の距離がゼロとなる。


「こうして密着すると、さらに楽しい」


 ジンの胸に顔をうずめてみた。

 すると心臓の鼓動が聞こえた気がした。


 トクン、トクン、トクン……。

 ジンも一抹の不安を抱いているのだろうか、と新しい疑問が浮上してくる。


「もしかして、神室さん、緊張されていますか?」

「当たり前だ。この一年で感じたことのないプレッシャーを受けている。大切な仕事と一緒で、絶対にやり直しが効かないからな。今夜は一度きりなんだ」

「俺も緊張しています。変な汗が出そうなくらい」

「その割には楽しそうだな」


 赤ちゃんをあやすみたいにジンの手が背中をトントンしてくる。


 一定のリズムが気持ちいい。

 何時間だってこの姿勢をキープしていたい。


「俺から一個、お願いしてもよろしいでしょうか?」


 背中のトントンが止まった。


「何でも言ってみろ。車が欲しいのか? 別荘が欲しいのか? それとも派手に挙式したいのか?」

「違いますよ」


 見当外れもいいとこなので吹き出しそうになる。


「呼び方です。天野もいいですが、タクミと呼んでほしいです。せめて家の中くらいは。一個でいいので変化が欲しいのです。俺たちって四ヶ月も同棲していますから。そこから一歩進むために何ができるだろうと考えたら、呼び方を変えるのが一番だと思いました」

「お安い御用だ。タクミ、タクミ、タクミ……。何回だって呼んでやる。調子に乗って会社でもタクミと呼びそうだな。周りから怪しまれるだろうな」

「ふふ……」


 ジンの体が離れたかと思うと額にキスされた。


「愛しているぞ、タクミ」

「俺もです」


 唇と唇で軽いキスを交わす。


「もしかして、タクミも俺のことを下の名前で呼んでくれるのか?」

「当然です。嫌じゃなければ」

「嫌なわけあるものか」


 タクミは唇を噛んでとろけそうになる表情を引き締めた。


「ジンさん」

「おう、何だ?」

「呼んでみただけです」

「こいつめ」


 ちょっと強めのキスをもらう。


「タクミか。良い名前だな」

「ジンさんほど良い響きじゃないですよ」


 加湿器のランプが紫に変わって、室内の妖しいムードを一気に倍化させた。

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