第42話 怖いくらいに幸せ
お風呂のドアを開けたタクミは、びっくりして数秒動けなくなった。
バスタブ一面に大量の泡が浮いていたのだ。
まさかの泡風呂である。
ジンのサービス精神に胸が熱くなる。
どこまで優しい男なんだろうと呆れつつ手を入れてみた。
腕にまとわりついた泡がお菓子みたいにプチプチと弾けて、童心に帰った気分にさせられる。
体はたっぷりと洗っておく。
まずは腕から、そして首周り、腹、背中、脚と下へ降りていくのがタクミの洗い方だ。
いつもの倍の時間をかけて入念に磨いておいた。
体をシャワーで流したらお待ちかねの泡風呂へ。
ホイップみたいに柔らかくて、手で潰してみたり、息で吹き飛ばして遊んでみた。
ふとアイディアを思いついたタクミは、両手でたくさんの泡をすくう。
自分の頭にのせてソフトクリームみたいに盛ってみた。
鏡をのぞいてみると、予想通りというべきか、漫画に出てくる敵キャラのようなヘアスタイルとなっている。
昔からくだらない妄想が好きだった。
漫画家になった秘密はそのへんに隠されている気がする。
「おい! 天野!」
急にドアが開いて、ひっくり返りそうになる。
「ど……どうしたのですか⁉︎」
「ゆっくり入浴していいぞ。俺が待っているとか余計な心配はするな。むしろ長風呂してくれ」
「分かりました!」
一人になってからジンに全裸を見られたと気づいた。
今さら恥ずかしがることじゃないとはいえ、腕をクロスさせて自分の肩を抱いてしまう。
タクミが貧相な体であることくらい、ジンは以前から知っているだろう。
どういう感想を持ったのかベッドの上で聞いてみよう。
「長風呂してくれと言われてもな……」
風呂場でできることなんて、数字をひたすら数えるのと、ジンの気持ちを想像するくらい。
タクミは割とのぼせやすいタイプで、スマホを防水ケースに入れて動画を視聴する……というのが体質的に無理だったりする。
思えば泡風呂なんて何年ぶりだろう。
心ゆくまで楽しまないと損かもしれない。
自分は描き手であることを思い出したタクミは、指で水面にイラストを描きまくった。
ソフトクリーム、キャンディ、おもちゃのアヒル。
シンプルな絵なら意外と描ける。
ならばとジンの似顔絵にもトライしてみた。
線は引いたそばから消えるので、描いても描いても終わらない。
「やっぱり、俺、神室さんのことが大好きだな」
気づけば三十分くらい入浴していた。
これならジンも文句は言わないだろうと思い、最後に体を流しておく。
「お待たせしました。上がりました」
タクミがシャツにハーフパンツという格好で出てくると、ジンはリビングでパソコンに触れていた。
「もしかして、お仕事ですか?」
「まあな。明日は天野と一日楽しみたいからな。仕事の貯金を作っている。一分一秒すら無駄にしたくない」
何という貪欲さだろうか。
サラリーマンとしてのジンの凄さを垣間見た気がした。
ジンはパソコンを閉じると冷凍庫からシャーベットを取り出した。
スプーンと一緒にタクミの席へ置く。
「体が渇いただろう。これでも食べて水分補給するといい。食べ終わったら俺の寝室で待っていてくれ」
「あの……神室さんの室室に入ってもいいのですか?」
「もちろん。ベッドの上で休んでおけ」
ジンの寝室に入ったことはある。
というより毎日掃除してきた。
ジンは普段から私室と寝室を清潔にしており、軽く掃除機をかけたら終わりだ。
だから引き出しの中を調べたことは一度もない。
一人になったタクミはシャーベットを食べてみた。
爽やかなマスカット味に舌鼓を打つ。
ワインのようなコクがあり美味しい。
とうとうジンと一夜を共にするのか。
これと同じドキドキ、漫画が初めて配信された日以来かもしれない。
過去の苦労が走馬灯のように走って、スプーンをガリっと噛んでしまった。
上手くいくだろうか。
自信があると言ったら嘘になる。
失敗の数だけは並の二十六歳より多いだろう。
スプーンを動かす手が何回も止まり、シャーベットを食べ終わる頃には水みたいになっていた。
使い終わったスプーンを洗い、歯を磨いておく。
最後に歯医者へ行ったのはいつだっけ? と余計な心配が頭をもたげる。
キッチンから備蓄のミネラルウォーターを二本取っておいた。
ジンも風呂上がりは喉が渇きやすいだろう。
これを寝室に置いておけば即座に水分補給できる。
『天野は気が利くな』と褒められるシーンを勝手に想像して、ペットボトルを抱いたまま含み笑いした。
ダメだ。
明らかに病気だ。
たぶん恋の病。
ジンのことが好きすぎて、ジンを中心に考えてしまう。
こんな調子だと『もっと自分を大切にしろ』と叱られる未来が待っている。
そういう大人なのだ。
タクミが好きになった神室ジンという男前は。
『天野の人生なんだ。天野が決めたらいい』
歯の浮くようなセリフが似合ってしまう。
死ぬほど格好いい。
漫画の主人公みたいに。
タクミは本来
なぜか選ばれてしまった。
星の数ほどいる男女を差し置いてパートナーの座を手にしてしまった。
怖いくらいに幸せとは、今のような状態を指すのかと、タクミは心臓の上で手を重ねた。
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