第17話 紫音のBL診断シート
八時前のオフィスには、社員の姿がちらほら見えた。
コミック・バイトの始業時間が十時といえば、いかにモチベーションが高いのか、どれほど多忙を極めるビジネスなのか、一目瞭然というやつだろう。
BL編集長である紫音の姿も当然のようにあった。
スマホの画面に向かって、
「は〜い、またね〜。バイバ〜イ」
と話しかけていたから、小さなお子さんとビデオ電話していたのかもしれない。
「紫音さん、おはようございます。この後、少しお時間をいただけませんか?」
「やあやあ、神室くん、今日も早いね」
紫音の目がジンからタクミへスライドする。
「天野くん! 心配したよ! 家が焼けたって聞いたから!」
その声に何人かのスタッフが反応して、好奇の眼差しを向けてきた。
「大丈夫じゃないですが、ギリギリ大丈夫です! 少なくとも漫画家は続けます! 神室さんにフォローいただけましたので!」
「そうか、良かったよ。私なりに天野くんのプランを色々と練っていたからね。天野くんに描いてもらいたい作品も何点かピックアップしてみたんだ」
大好きな玩具でも手に入れたみたいに紫音は嬉々としている。
「じゃあ、俺は自分の席に戻りますから。天野をよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げたジンが去っていくのを、タクミは少し心細い気持ちで見送った。
「何だい? 神室くんが近くにいないと不安かい?」
「そうじゃありませんが、俺はもうNL系レーベルの漫画家じゃないのかと思うと、自分の不甲斐なさに泣けてきます」
「なるほどね。でもね……」
紫音は後ろからタクミの肩をモミモミしてきた。
「神室くんも顔に出さないだけで、同じような不甲斐なさを抱えているよ。見ての通りプライドが高い男だからね。天野くんを手放すのに、苦渋の決断をしたはずさ」
「でも、原因は俺にありますから。これまでの四年間、何やってきたんだろうって……」
「終わったことを悔やんでも仕方ない!」
バシンッ! と背中に張り手をもらった。
「明日とは、明るい日って書くだろう! 明日はきっといい日になるの精神さ!」
紫音は不思議な女性だ。
近くにいるだけでパワーを分けてもらえる。
こういう編集長の形もあるのかと一つ学んだ気がした。
ブース席で待つように言われた。
すぐに大量のプリントを抱えた紫音が戻ってくる。
見覚えのある資料だなと思ったら、タクミが作成して紫音に提出しておいたBL漫画の感想文だった。
「私が天野くんに感想文を書かせた意味、分かるかな?」
「意味は二つあると思います。一つはBLの勉強のため。記憶の定着に役立ちますから。もう一つは俺の感性をチェックするため。描き手としての能力をチェックするのが目的だと思います」
「大正解!」
紫音がパチパチパチと拍手する。
「君って平凡そうなフリしてお利口さんだよね。しっかり自分の頭で考えられるのに、なぜNL部門で成功しなかったのか理解に苦しむよね」
「それは俺の実力が足りなかったからではないでしょうか?」
「まあまあ。実力の話はいったん脇に置くよ」
感想文の意味はもう一個あって、タクミの根性を測るのも狙いらしい。
一日に十作品読むのか、二十作品読むのか、三十作品読むのか。
消化したボリュームでタクミの器量が分かる、と紫音は言う。
「本当に一日中漫画を読んでいたんだね。送られてきた感想文の量を見れば分かるよ」
「そりゃ……まあ……崖っぷちですから……。ここで手を抜くと、本当に死んじゃうといいますか」
「いやいや、崖っぷちなのに逃避したくなるのが漫画家って生き物だよ。テスト直前なのに遊びたいのと一緒だよ。ゲームをやってみたり、ネットサーフィンしてみたり、友達とお茶してみたり」
「はぁ……」
三点目のお茶については、誘う相手がいないのが事実である。
打ち明けることじゃないので黙っておくが。
「朝から晩までBL漫画を読める。それも一週間ぶっ通しでも平気って軽いバケモノじゃないかな。先月までNL専門でやってきたんだよね。正直、私の期待以上だよ。恐れ入った」
「あはは……」
こんなに褒められたの、下手したら十年ぶりとかなので、タクミは下手くそな笑顔を浮かべてしまう。
紫音の試験に合格した。
その事実を喜ぶべきだろう。
「私なりに天野くんのBL診断をやってみました。その結果がこちらです」
でっかい表に『性的嗜好』やら『ストーリーの起伏』やら『BL地雷』やらの項目が並んでいる。
タクミはリアクションに困ってしまったが、紫音はお構いなしに進めていく。
「項目の意味なんて理解できなくていいんだ。私が分析しまくったという事実さえ伝わればいいんだ。口から血を吐くほどの執念でね……。休日に何時間費やしたとか、睡眠時間をいくら削ったとか、そんな話はどうでもいいんだ。天野くんには関係ない! ないないない!」
紫音の目が不気味な光を放ち、薄ら寒いものを感じてしまう。
「天野くんにはこの作品が相応しいと、私のデータベースが判断した!」
バシンッ!
紫音は一冊の小説をテーブルに叩きつけた。
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