第35話 深海へ落ちていく

 今日の水無月は女性が着るようなチャコールのチュニックを着ていた。

 チェック柄のストールを優雅になびかせており、昨日よりも美人っぷりが上がっている。


 二人はレジへ向かった。

 店員さんから受け取った紙袋をジンは水無月に預ける。

 嬉しそうに笑う水無月はもはや女性にしか見えなかった。


 インテリア用品店を出てからもタクミの尾行は続いた。


 今すぐ引き返した方が良いのは分かっている。

 この先タクミを傷つける事実しか待っていないだろう。

 一パーセントあるかもしれない望みにすがりたくて、すべての神経を目と耳に集中させた。


 お似合いの二人だと思う。

 文句なしで美男美女のカップルだ。


 水無月は本当に女性としか思えなくて、横にいるジンの男ぶりがいいから水無月の可愛さを際立たせているのだと理解した。


 ジンが足を止める。

 水無月に「ちょっと待て」と声をかける。


 ジンの指が伸びて水無月のきれいな黒髪に触れた。

 どうやらゴミが付いていたらしい。


「ありがとうございます」


 感謝する水無月が百点満点の笑みを浮かべたのは言うまでもない。

 タクミだって同じことをされたら舞い上がる。


 ジンだって普段より笑顔が柔らかい。

 外ではあまり笑わない男性だと思っていた。

 事実、職場にいるジンにはクールで落ち着いた人という印象が付きまとっている。


 家にいてリラックスしている時だけ違った一面を見せてくれるのかと思い上がっていたが、タクミの勘違いだったらしい。

 残酷すぎる景色のせいでタクミは色を失いかける。


 どこからどう見てもカップルだ。

 昔から付き合っている恋人みたいだ。


 水無月のようなパートナーがいるジンにとって、タクミなんて最初から眼中になかった。

 タクミが平凡男子だから、水無月も歯牙にかけなかった。


 容姿も漫画も向こうが上。

 しかも若い体を持っている。


 嫉妬している。

 未だかつてないほどに。

 ジンが好きだから息が詰まるという感情に頭はパニックを起こしており、手足の震えが止まらなくなる。


 タクミに追い討ちをかけるように二人は小洒落た喫茶店へ入っていった。

 入口のすぐ脇にある席に腰かける。


 ガラス越しなので何を話しているのか不明だが、楽しそうな雰囲気だけは伝わってきた。


 今夜の話でもしているのだろうか。

 美味しい料理を食べて、水無月の家へ向かうかもしれない。

 そこで体を重ねるとか。


 ジンは水無月みたいな美男子がタイプだろうか。

 だとしたらタクミが選ばれる可能性はゼロになる。


 こんな自分、嫌いだ。

 周りに誇れる部分が一個もない。

 四ヶ月ぶりの自己嫌悪に心が圧殺される。


 もう無理だった。

 逃げるようにしてモールから立ち去った。

 出口を抜けた瞬間、温かい涙が流れてきて、駅までの道を走りに走った。


 改札を抜ける時、ゲートの機械にぶつかってしまう。

 ホームで膝に手をついて乱れまくりの呼吸を整えた。


 自分は本当にガキだ。

 二十六年生きてきたのにウジウジと悩んでいる。

 神室ジンという高嶺の花に恋してしまった。


 天罰が降ったのかもしれない。

 神様が空から監視していて、もう諦めろと最後通牒を突きつけたのだろう。


 悲しかった。

 悔しかった。

 相手が水無月じゃなければ心の傷も半分で済んだ。


 水無月は人としても漫画家としても立派で本当に尊敬できる。

 この業界の宝かもしれない。


 それを理解できてしまう自分が嫌だった。


 こんな日に限って電車は混んでいる。

 なるべく人に見られないよう突き当たりのドアのところへ移動する。

 窓ガラスに反射しているタクミの顔は涙でぐちゃぐちゃだ。


 女子高生二人組の会話が聞こえた。


「男の先輩からメッセージがしつこくてさ。こっちは興味ないから純粋に迷惑っていうか」

「いるよね、勘違い男。しかも部活が同じだと無視もできないっていうか」

「そうそう。タテマエで相手しているんだけどな」


 自分のことをディスられた気分になった。


 全身が痛い。

 できるなら神隠しに遭って消えてしまいたい。

 ここじゃない別の世界へ行きたい。


 でも顔を上げると最寄り駅の看板が見えて、ここは現実だと分からされてしまう。


 ジンのマンションに着くまで何回も転びそうになった。

 柴犬に吠えられまくって小学生みたいに怯んでしまう。


 何とかマンションまで戻ってきたタクミはリビングの椅子に腰かけて頭を抱えた。


 出ていきたい。

 この空間から。


 漫画を描ける気がしなかった。

 ジンの顔を見るのが怖かった。


 結局、タクミが頑張ってこられたのはジンに褒められたいという我欲のエンジンがあったからで、水無月の登場により木っ端微塵に壊されてしまった。

 動力を失った潜水艇みたいにぶくぶく深海へ落ちていくしかないだろう。


 BLは海だと思った。

 底知れぬ暗闇へ引きずり込まれていく。


 そもそも漫画家を目指したのが間違いだった。

 タクミには才能なんて毛ほども無かった。


 ジンに出会えたのは単なる運で、BLに転身できたのも単なる運だ。

 化けの皮が剥がれてしまったタクミなんて、いつでも替えが効く使い捨てのコマに過ぎない。


 レアカードは水無月のような天才だけ。

 このマンションだって場違いだろう。

 豚に真珠、猫に小判というやつだ。


 ジンは誰にでも優しくて、その優しさを勘違いしていた自分が恥ずかしくて、涙が枯れるまで泣き続けた。

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