第3話 ピュアだからこそ描ける
「へぇ〜。天野くんって過去に一度も恋愛したことがないんだ」
「そうなんですよ。生身の女性と話すのが、どうも苦手でして……。あ、もちろん、告白した経験も告白された経験もゼロです」
タクミ、ジン、新田の三人は中華料理屋へやってきた。
オフィスから徒歩一分の距離にあるお店で、コミック・バイトの社員がよく利用している。
誘ってきたのはジンの方から。
『今日は奢ってやるよ。食費をケチってまともな飯を食っていないんだろう』と図星を突かれてしまった。
雲の上の存在である編集長からの誘いなので、冴えない漫画家のタクミに断る権利などない。
夜の六時前だからお客の姿はまばらだ。
二人組の若いサラリーマンがやってきて、ビールと餃子を注文している。
「お待たせしました」
若い女性スタッフが
新田は犬みたいに舌を動かすと、眼鏡を白に染めながらパクついた。
「新田さんはもうすぐご結婚ですっけ?」
「まあね。入籍するとはいえ、しばらく遠距離なんだけどね」
そういう左手には光る指輪がある。
ジンはどうなのか気になった。
指輪は付けていないが、傷つけちゃうのを嫌って普段は外しているのだろうか。
ジンほどの色男を世の中の女性が捨て置かない気がする。
「あの……神室さんの奥さんって……」
ギロリと睨まれた。
「俺が結婚しているように見えるか?」
タクミは怯えつつ首を縦に振っておく。
怒られるだろうかと身構えていたら、ジンはつまらなそうに鼻を鳴らしてグラスの水を一口飲んだ。
「この人は仕事と結婚しているようなものだからね」
「うるさいぞ、新田。新婚になるからって、独身の男を
「でも、社長も神室さんにプレッシャーをかけているじゃないですか。そろそろ結婚しろよ、女性を紹介しようか、て」
「あいつのお節介は好かん。社長のくせに仕事に関係ない話が多すぎる」
社長をあいつ呼ばわりした⁉︎
ジンの意外と子供っぽい一面を見つけた気がして、タクミの心はほっこりする。
「……ん?」
ふと視線を感じたタクミは周囲をキョロキョロした。
手持ち無沙汰の女性スタッフがこちらの卓を観察している。
憧れをたっぷり含んだ目線の先にあるのはジンの横顔だ。
なるほど。
ジンは常連客なので目の保養に打ってつけだろう。
ジンは男の目から見ても格好いい。
冗談でもお世辞でもなく、そこらへんの俳優に負けないくらい華がある。
タクミが女に生まれていたら、あの女性スタッフみたいに一目惚れするのかと思うと、男に生まれて良かった気がする。
ジンだって会社に出入りする漫画家から秋波を送られたくないだろう。
「やっぱり俺は恋愛経験がないから、読者の心に響くストーリーが描けないのでしょうか?」
タクミは自分のコンプレックスを頼れる大人達に打ち明けてみた。
ジンと新田のお箸がまったく同じタイミングで止まる。
「そんなことはないだろう。自分の願望やコンプレックスを良いストーリーに昇華させる人もいる。恋愛経験がない、イコール不利とはならないだろう」
ジンの意見に新田も頷く。
「そうだよ。経験がないからこそ描ける作品もあるはずだ。天野くんはピュアなんだ。自分の持ち味を大切にしてほしいな」
「言えてるな。天野はピュアだな。男子高校生に負けないくらいな」
ジンに笑われてしまい、タクミの耳が一気に熱を帯びてしまう。
今日のタクミはチェック柄シャツを着ており、一人だけ服装が子供っぽいし、場違いなところにいる気分にさせられた。
「そういや神室さんが良い話をしていたじゃないですか。画家のエピソード」
新田から話を振られたジンが、なんだっけ、と考え込む。
内容はこうだった。
とある風景画家がいた。
彼はもっとレベルの高い絵が描きたくて地質学の勉強をしまくった。
するとどうなったか。
細部のリアリティを表現するのは上手くなったが、もはやデッサンみたいな絵しか描けなくなった。
それまで彼の絵を評価してきた人は一様に見向きもしなくなった。
知識の多さが不利に働いてしまった典型である。
「だから恋愛経験の乏しさを天野くんが気に病むことはないよ」
新田の意見にジンもうんうん賛同している。
「俺とか新田は無理なんだ。ピュアなストーリーを思いつけない。だから編集者をやっている。漫画家が持ってきた原石を加工できても、原石をゼロから生み出す仕事は無理なんだ」
自分の価値を教えてもらったような気がして、はい! と元気よく返事した。
「やっぱり、いいな。天野は。歳の離れた弟ができたみたいだ」
「弟だなんて恐れ多い!」
タクミの反応が面白いのか、ジンは人懐っこい笑みをくれる。
思い返せば今日はアップダウンが激しい一日だった。
新田からの連絡を受け取った。
いきなり連載の打ち切りを告げられて、その場で泣いてしまった。
するとジンがやってきて、打ち切りまでの経緯を教えてくれた。
三ヶ月の猶予をもらった。
タクミにも対する期待も言葉にしてくれた。
帰ろうとした時、お腹が鳴って恥ずかしい思いをしたけれども、あのマイナスがなければ回鍋肉定食にありつけなかったわけで、塞翁が馬という言葉の意味を考えさせられる。
打ち切りはショックだ。
このまま引退した方が楽かもしれない。
でも新しい扉を開けるための鍵かもしれない。
新作のアイディアが眠っているであろう自分の胸に手を当てると、それまで頭をおおっていた霧がいっぺんに晴れてくれた。
迷う必要なんてない。
一人でもタクミの作品を必要としてくれる人がいる限り、タクミは漫画を描き続けると決めているのだ。
「そうそう、神室さん。あの件、そろそろ天野くんに話してもいいですかね?」
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