第14話 遭難
アナウンサー斎藤と入れ歯の近藤は小さな声での罵り合いを続けながらも、立ち上がって歩き始めた。
「そういえば、天気はどうやって決まってんだ? 作ってる奴がいるのか?」
「知りませんよ。作ったことなんてないんですから」
「チッ、無能が」
「あ?」
殺風景で雄大な自然を、三人はひたすら歩いた。
時折死んでいることを忘れかけてしまう程、地球らしいゆったりとした時間が流れていた。死後の世界がどこまで続いていくのかはわからない。延々と刻む時の中にいつまでも取り残されるのかもしれないと思うと、何故だか怖くなったりもした。生きている時に死がとてつもなく恐ろしかった理由は、死があまりに寛大だからだったからだ。
果たして今は生きているのか、死んでいるのか。ゼロ歳から始まって九十歳まで駆け抜けた人生とは一体何だったのか。
尽きない悩みと平和な風景がしばし私の頭を譫妄状態にしていた。
何時間か何日間か歩くと、ついに崖の一部が緩やかな坂になっている場所に到着した。三人は満足いくまで歓声を上げた後、なだらかな坂に足を踏み入れた。足首や膝を大事にしながら慎重に坂を下る必要はもうないのだが、私たちはついつい癖でなるべく体に負担がかからないように下りていった。アナウンサー斎藤はさすが死後十年のベテランといったところで、坂に怯えることなく突き進んだ。飛んで跳ねて転がって、もはや人間よりもサッカーボールを見ているようだった。
何時間か何日間か歩くと、ようやく川の水面の形が肉眼でもわかるようになった。ひとしきり歓声をあげ、河原に落ちていた丸く薄い石で水切りを楽しんだ後、無人船着き場へと向かった。
しかし、一同を驚かしたのは、その無人船着き場にあったのは、モーターボートでもなくオールを使って漕ぐ小舟でもなく、白鳥の形をした足漕ぎボートだったことだ。
「池でノロノロ動いとるしょうもない船じゃないか!」
近藤が叫んだ。
「昔孫と乗ったなぁ」
「知るかそんなこと!」
幸い川の流れは緩やかだったが、緩やかとはいえ川は川。常時穏やかな池とはわけが違う。
三人が乗り込むと、ホワイトスワンは人間たちの重さでグラグラと揺れた。ペダルは二個しかなかった。厳粛なるじゃんけんの結果、斎藤と私が漕ぐことになった。つまり、ぐちゃぐちゃと文句を垂れる近藤が何もしないという最悪の結果だ。公正なじゃんけんなので仕方がない。
ホワイトスワンはのそりと川に挑んだが、やはり緩いとはいえ川の流れに押されてしまう。出航早々転覆しかけ、持ち直したと思ったら、今度は貧乏ゆすりでもしているかのように船が左右に小刻みに揺れた。
「漕げ! 漕げ!」
ペダルが重い。私と斎藤はあらん限りの体重を駆使してペダルと格闘した。汗がほとばしり、息が上がる。
後から考えると、どうして乗り込む前に渡航は無理だと判断できなかったのかが謎だ。
「右旋回! 遅せぇぞ! はっはっはっ!」
私の耳元で近藤が叫んだ。斎藤が近藤に殴りかかりたくなった気持ちがよくわかる。不快なでんでん太鼓をひたすら耳元で鳴らされているみたいだった。私と斎藤は何度も目配せをし合い、噴き出しかける互いの怒りを鎮めた。そうしなければ、近藤を川へ放り出しかねなかった。
川の半ばくらいまでなんとか進んだところで、状況は一気に悪化した。斎藤が怒りを口ではなく足に集中させた結果、なんとペダルを破壊してしまったのだ。川の流れは勢いを増し、容赦なくホワイトスワンを下へ下へと押し流す。これでは、いくら私が必死に漕いだとしても、前に進むことなくその場で回転をしてしまうだけだ。万事休す。三人を乗せたホワイトスワンは挙動不審な動きを度々しながら、川の気分の赴くままに流されることとなった。
雪山で遭難した人がなぜ絶望を感じるのか。それは、道を見失った結果帰れなくなり、帰れなくなった結果凍え、凍えた結果凍死することを恐れるからだ。だが、何度も言うように、五郎たちはちゃんと死んでいる。どんなに凍えようと、凍えていないと言い聞かせれば凍えない。腹なんか空いてないと思えば断食断水もおちゃのこさいさい。つまり、遭難したところで多少の焦りは感じるものの、恐怖を感じる必要などないのだ。
もうどうしようもなくなった一行は、流されながら岸壁の景色を見て楽しむことにした。現世での岸壁とは違い、この世界の岸壁は見ていて面白かった。というのも、誰が作ったのかはわからないが(恐らく大半は誰かが遊び半分で作ったに違いない)、壁にはたくさんの世界史が刻まれていたのだ。
巨大な四人のラムセス二世がこちらを覗く、かの有名なアブ・シンベル神殿や(多分偽物)、赤く力強い字で書かれた「赤壁」の文字(十中八九偽物)、さらにはモアイ像と思われる真四角の顔が岸壁から顔を出している場所もあるのだ(絶対に偽物)。
「ガラの悪い不良が河川敷の橋に落書きをするだろ。あれと同じ感覚でこいつらやっとるな」
世界的な名所や遺産の雑な扱いぶりに、まだ不良の方がましだと思う私であった。
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