ウェルノーン
shomin shinkai
巻髪五郎 死す!
「お父さん!」
娘に呼ばれて、私はゆっくりと目を開けた。
娘と孫に囲まれて死を迎えることができる。
こんなに幸せなことがあるだろうか。
死がゆっくりと体を包んでくる。私は満足げなため息をついた。その様子を見て家族一同もその時がきたと覚悟を決める。
「死は怖くない」
ここ数日というのも、私は臨終の瞬間に何を言おうかずっと考えていた。とても自分の人生が教科書に載ったり物語にされたりするものではないということはわかっていたが、偉大な人物たちの死の名言を、自分も言ってみたかったのだ。「すべてよし」とか「我が生涯に一片の悔いなし」とか「心が整理された者にとって、死は次なる大いなる冒険に過ぎないのじゃ」とか。だが、実際に自分が言った言葉というのは、壮大でも感動的なものでもなんでもなく、甘ったるいありきたりのものだった。
「これでやっと、哀子に会える」
しまった、と思った時には遅かった。慌てて何か荘厳な言葉を探したが、既に死が声帯を封じ、口を封じていた。
視界からも光が消えていく。仕方なく決め台詞は諦め、最後に一度、家族の面々を見ることにした。
美樹、可愛い一人娘。若い頃には酔って通行人と殴り合ったり、タバコ中毒になったり、もう終わりだ、と思った時期も何度があったが、今や立派で誠実な母親だ。ここまでの成長を見られてとても嬉しい。
娘の夫の義隆――こいつはまぁいいや。どれだけ注意しても二階でスクワットジャンプをやめない、筋トレに命を懸けている変態に過ぎない。私が今までの人生で一番激怒したのは、こいつがタンクトップで結婚の報告をしてきたことだ。なんでも、鍛え上げられた腕の筋肉を見せれば、どんな頑固おやじからでも信頼を勝ち取れると思っていたらしい。ふざけるな、逆効果だ。全く、本当にもう、なんで死の瞬間にこんなくだらないことを思い出すのだろう。さぁ、こいつのことは早く忘れて……。
そして、孫の真央。孫がこんなにも愛おしい存在だとは思ってもいなかった。喜怒哀楽の全てを可愛いという一言で片づけられる気がする。最後に真央の顔を見て……あれ?
私は仰天した。
真央の姿が見えない。
さっきまでいたよな……?
え? 真央! 真央ぉ!
「六時四十二分。巻髪五郎さん。ご臨終です」
医者がそっと呟いた。
母が泣き崩れ、父が暗い顔でその肩にそっと手を置いた。しかし、真央は真顔のまま表情を変えなかった。
決して祖父の死を喜んでいるわけではない、楽しんでいるわけでもない。傍から見たら彼女も祖父の死に打ちひしがれているように見える。ただ……。
真央は時計を見てため息をついた。
彼女の透き通った瞳には何も映っていなかった。
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