第1話 死の朝
おじいちゃんはとても優しかった。
「真央、今日は学校休みなさい。ほとんど寝てないんだし、おじいちゃんが……死んじゃったのよ。無理はしなくていいから」
制服に着替える私に向かってお母さんが涙目で言った。
「いや、いくよ」
私は淡々とそう言うと、鞄を手に取って玄関へと向かう。
「どうせここにいてもやることなんてないんだし」
「そ、それはそうだけど……大丈夫なの?」
「何が?」
靴を履きながらそう言うと、お母さんはひどく悲しそうな顔をした。ただでさえおじいちゃんの死で狼狽しているお母さんをさらに痛めつけてしまったとわかり、私は逃げるように家を出る。
「いってきます」
人は死ぬ。
今日、世界でどれくらいの人が死んだのだろう。これまでどれだけの人が死んだのだろう。教科書に載っている人々の九割は既に死んでいるのだし、私だってもちろんいつかは死んでいく。
今日はたまたまおじいちゃんの番だっただけだ。もう九十を超えているのだから、いつ死んでもおかしくはなかったはずだ。
どうやら今週は「あいさつ週間」と呼ばれる謎の期間だったらしく、中学校の門の前ではジャージ姿の保険体育の先生が眠そうに立っていて、「はい、おはよぉ」と生徒たちにあいさつをしていた。私は先生に会釈だけして門を通り過ぎる。先生は一度私を視界に入れたが、当たり前のように視線を逸らした。私の後ろを歩いていた生徒は捕まった。
「こら、永田、あいさつをせんか、あいさつを!」
「え、しましたって!」
「声が小さいんだよ。それでも体育会系か。もう一度大きな声で、おはようございますと言うんだ」
「えぇ、何で俺だけ……」
「言わないなら、陸上部の顧問に言いつけなければならんな。朝練をさぼった上に、あいさつもなっていないと」
「おはようございます!」
校舎三階の二年A組の教室に入る。
いくつかのグループが朝っぱらから楽しげに会話を弾ませており、教室は賑やかだった。私は彼らの間を無造作に縫って自分の席についた。
本を読む気にもならず、ましてや授業の予習をしているフリをする気にもならず、私は死体のように椅子で干からびていた。
「え? 真央?」
動揺した声と共に、ツインテールの小柄な女の子が後ろからやってきた。
「おはよう」
彼女は相田さつき。私とは小学校からの幼馴染であり、隣の隣の隣の家に住んでいる。
「だ、大丈夫なの?」
お母さんと同じことを聞かれたので、同じように答えた。
「何が?」
「何がって! そりゃ――」
さつきは声量を落とした。
「おじいちゃん、今朝亡くなったんでしょ」
「そうよ」
「だ、だから私、今日は気を遣ってあえて迎えにいかなかったのに。学校なんてこれる精神状態じゃないでしょう?」
「そんなことないわ」
「なんでそんな薄情なこと言うのよ。普通おじいちゃんが――」
揉める二人の間に勢いよく何かが飛び込んできた。
「おじいちゃんが何だって?」
クラス一のお調子者、塩田勇斗のお出ましだ。
「何でもないわ」
いがみ合っていた私とさつきの声が重なった。
「何でもないことはないだろう。何なんだい?」
「何でもないって」
苛立ちをはっきりと表した態度を私がとっても(怒りがこもった私の視線は、大抵の人を震え上がらせる)塩田はけろっとしている。少し前までは、この鈍さと天性の明るさでクラスを沸かせる彼に比較的いい印象を抱いていたが、先週の席替えで隣になった途端、彼の長所が全て裏目に出て私を攻撃してきた。
というのも、授業中にしょっちゅう声をかけてきて、授業とは何の関係もない、そして私が全く知らないサッカーの話をしてきたり、放課の間にも消しゴムを投げつけてきたり、突然背後から膝カックンをしてきたりするのだ。最近私は、いつかこいつをセクハラで訴えてやろうという気になっている。
ともかく、面倒くさい男なのだ。人間離れした図々しさで人のデリカシーにずけずけと踏み込んで平然としている。やはりそれは先生をいじって授業を盛り上げたり、気の合う仲間同士ではしゃぎ合う分には心強い武器になるのだが、たいして仲もよくない私にとっては心を勝手にかき乱されているような感覚があり、席替えの二日後には拒絶反応が出るようになっていた。
さつきはずっと塩田が私に気があると思っているようだが、絶対にそれはないと私は確信していた。明らかにその態度は好意というより好奇心――例えば動物園でパンダを見るような――であったり、何よりあいつには超絶美人な彼女がいる。あの美人を捨てて私を選ぶとは思えない。ファンタジーだ。
加えて、塩田は無駄に顔がいい。例えどれだけ嫌いでも、顔はかっこいいと頷かずにはいられない程に。どうしてクラスの中心にならないでいられよう。
この男に祖父の死を伝えようものなら、瞬きをする間もなくその噂はクラス中に広まって、恐らくただの病死という事実も、激しい銃撃戦の末に子どもを庇って爆死、くらいの嘘に肥大しているはずだ。
塩田は唇を突き出して言った。
「ふぅん、悩み事ならいくらでも俺が相談に乗ってあげるのに」
「余計なお世話よ」
ホームルームのチャイムがなり、担任の枝木先生が教室に入ってきた。まだ何か言いたそうだったさつきと塩田だが、渋々自分の席に座る。
私は小さく息を吐いた。
「はいホームルーム始めるぞ。うわ、永田惜しかったな、遅刻三日連続、と」
永田の遅刻にクラスは笑った。
「違うんです先生、俺校門で止められてたんですって!」
「面白い言い訳だな」
「永田、往生際が悪いぞ!」
「大人しく罪を認めて償うべきでは?」
「あぁ、黙ってろお前ら!」
クラスは朝から湧いた。
私は頬を一ミリも緩ませることなく、窓の外を見つめていた。
おじいちゃんが死んだ。
おじいちゃんはいつも私に優しかった。
誕生日にはたくさんのプレゼントを買ってくれた。
授業参観や学校行事は欠かさずにきてくれた。
テストで三十点を取ってしまい絶望を感じていた時も、何故かおじいちゃんだけが優しい目で見てくれた。
枝木先生がホームルームを始めた。
「はい、じゃあ今日、というか今週の連絡事項だけど。前にも言った通り、水曜日の総合の時間に歴史上の偉人発表があるから、各々準備しておくように。発表は名簿順だな」
「えぇ!」
「一回の授業で十人くらいできたらいいなぁ」
「めんどくせぇ。総合の時間ってのは遊ぶ時間のことだろ」
永田が呟いたが、先生は無視した。
「あ、あとそれから来週の土曜日体育祭があって、その前の木曜と金曜は授業なしで体育祭練習ができるよね。だから、前倒しで英語の真田先生と国語の八木先生が小テストを今週やるって言っていました」
「ええええええ!」
生徒たちの小テストに対する怒りの絶叫が教室にこだましても、私は一人自分の世界にこもっていた。
おじいちゃんが死んだ。
……悲しむべきなのだろうか。
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