第2話 死の先
今までで一番気持ちの良い開眼だった。
死に向かってのろのろと沈んでいく感覚とは真反対の、気力に満ち溢れた突然の目覚めだった。
私、巻髪五郎は起き上がった。
体が軽く、思ったように動く。病による節々の痛みが一切なく、今のように上半身を起こす動作など、ここ数年は痛みのあまりろくにできたことがなかった。
呆然と辺りを見渡す。
だだっ広い駅のホームのような場所だ。純白で覆われた清廉な空間は病室の偽善的なそれとは異なり、今すぐにも体が浮かんでいきそうな程ほのぼのとしていた。太陽の光が白い床を温め、どこかから鳥のさえずりも聞こえる。
私の他にも何人かの人が倒れていた。少し経つと、彼らは私と同じように目をかっと開いて起き上がり、困惑した顔でキョロキョロとあたりを眺めた。奥の方には改札口のようなものが見える。
恐怖は感じなかった。
「お目覚めですね」
白衣に身を包んだ人々が起き上がった私たちに駆け寄ってきた。
「さぁ立って、外へと案内します」
恐怖はなかったが、疑問は無数にある。
「あ、あの、私は死んだん……ですよね?」
「ええ、死にましたよ」
白衣の男は笑顔で言った。
「もしかして……ここは天国だったり」
「はは、まさか」
「じ、じゃあ地獄? 私はそんな悪党というわけでは――」
「違いますよ。地獄はこんなに明るくないでしょう?」
「確かに。いやはやしかし、それならここは一体どこなんですか」
私の他に目覚めた人々もおおむね私と同じような状態であった。まずは自分が死んだことを確認し、それからここは天国か地獄かを確認する。だが、どちらでもないのだ。
「最初は誰でもこうなります。でも安心して下さい。後で説明しますから」
白衣をきた人々は皆そう言った。
白衣に連れられて改札を出、左右を見渡すと、同じような改札が何個もあることがわかり、また同じような境遇の人間が何十人もいることがわかった。
頭上にある電子掲示板が黄色の文字を映し出している。
「新人死者ガイダンス 九時から」
「ガイダンス?」
一同はざわついた。
私も喧騒に便乗して「ガイダンス?」と不満げに言ってみた。
「この世界のことを説明しなければなりませんから」
「何十年も頑張って生きて、死んでもまたガイダンスかよ!」
と誰かが叫んだ。
その通りだと思う。
私を含め大多数はそれでもガイダンス会場に足を運ぼうとしたが、世の中には自分の心に驚くほど従順な人間もいるものだ。一人の老人が金切り声を上げた。
「いいや、いかん。俺はこの年になってまでガイダンスなんかには絶対にいかん。絶対にだ!」
どれほどガイダンスに恨みがあるのだろうか。ガイダンスに親でも殺されたに違いない。怒り狂った老人は、なだめようとする白衣の人の腕を振りほどき、進行方向とは真逆へ走り出した。
「死とはすなわち生からの自由! 俺は死んだんだ。自由に走って何が悪い!」
豪快に走る老人。多くの人がこの老人革命家に感化された。確かに言われてみればそうだ。死んでまで何か巨大な組織の言いなりになることなんでないのではないか、と。
しかし次の瞬間、彼らの希望は打ち砕かれた。
腕を振りほどかれた白衣のスタッフが、懐から、どうやって懐に入れていたのか謎だが、マシンガンを取り出し、逃げる老人に向かって平然と発射したのだ。
やかましい音。銃声、人々の悲鳴、どよめき。そして、老人がうめき声と共にその場に倒れる音。それらが一瞬のうちに響いた。
老人はその場に倒れたまま動かず、白衣のスタッフは何食わぬ顔でマシンガンから立ち上る煙を手で払った。
「さぁ、ガイダンスにいきましょう」
と自分を担当している白衣のスタッフが言ったので、私も他の人々も首を縦に振るほかなかった。このスタッフも白衣の中におぞましい武器を持っているのだ。ナイフとか、チェーンソーとか、ロケットランチャーとか。逃げるそぶりを見せようものならそれらの武器で派手に殺される。
死後の世界で死ぬという恐怖を味わうとは思ってもいなかった。
いやしかし、死んでいるのにどう死ぬというのだ?
ガイダンス会場はまさしくガイダンス会場といった佇まいの、退屈で最悪なありきたりの空間だった。薄暗い部屋。いくつかある長机にパイプ椅子。プロジェクターが前の壁を白く映し出し、そこにはパソコンの初期設定でついてくる、無理して明るく振舞う内気な教師のような字体で「新人死者ガイダンス」と書かれている。
ある人は高校時代に舐め腐った態度で受けた「期末テスト赤点者ガイダンス」を思い出し、またある人は大学時代に眠りながら聞いた「工学部新一年生ガイダンス」を思い出した。私なんかは晩年に妻に連れられていったあの地獄の「手織り編み物初心者ガイダンス」の記憶なんかが呼び起こされた。ともかく、生きていようが死んでいようが、ガイダンスと名のつくものには退屈な空気が流れるような仕組みが刻まれているのだ。
私は嘆息した。
会場に入る手前で白衣のスタッフは離れていった。心細くなりながらも空いている席に座ろうとすると、同じ席に座ろうとしている人とお見合い状態になってしまった。
「あぁ、すみませ……」
はっとして顔を上げると、視界に入ったのは外国人の老婆の姿だった。大慌ての私。彼女がどこの国の言語を喋るのかわからなかったが、どこの国の言語だろうと私は喋れない。こういう時はとりあえず英語だ。しかし、妻の哀子みたいに真面目な態度で英会話に勤しんでいなかった私は、「私」という単語ですらすっと頭に浮かんでこない始末だ。
「お、おー、アイキャント……えー、スピーク……えー、イングリッシュ」
「どうやら言語の心配はいらないみたいですよ」
頭の中にある薄っぺらい英語の文法書と単語帳をまさぐりながらぶつぶつ呟こうとする私を老婆が遮った。その言葉は恐ろしく流暢に頭の中に入り込み、五郎は飛び跳ねた。
「に、日本語お上手ですね」
「いいえ。私は日本語を話してはいませんよ。生まれてこのかた英語しか喋ったことがありません」
「え?」
「ですから、私は英語、あなたが日本語を喋っても、十分に会話ができるということですよ」
「それは便利だ。どうぞ席に座って下さい。私は別の席を探します」
私は空いている別の席に座り、勝ち誇った気持ちになった。
よしよし、これで哀子と再会した時に語学マウントを取られなくても済む。英語なんか喋る必要ないんだ。これで一つ哀子の武器が減った。やった。あと残るマウントは、料理ができるマウント、裁縫ができるマウント、ランニングができるマウント、ストレッチができるマウント、達筆マウント、絵心マウント……。
考えている内に惨めになってきた。
一人で勝手に私が落ち込んでいる間に、席は死にたてほやほやの新人たちで埋め尽くされていった。世界中の様々な人種が揃い踏みしているようだった。言語の壁がない分、幾分か人々の表情は柔らかいように思われた。当然比率的には老人の数が多かったが、中には十代、二十代といった肌がツヤツヤの人々もいたし、ベビーカーに乗せられた自分の足で立つこともまだできない赤ん坊の姿もあり、それには心が痛んだ。
赤ん坊はともかく、老人たちは生を全うした後の不思議な世界を純粋な気持ちで体感しているような表情の者が多かったが、若者たちは依然自分という概念が存在していることに絶望した暗い表情をしている人が多い。
さて、そんな多種多様な人種で満たされていった会場だったが、私の隣に座ってきたのは、若いロシア人美女でも力強いアフリカ人でもなく、私と同じような身なりをした日本人の高齢者だった。
「やぁやぁ、どぉもどぉも、近藤です」
「巻髪と申します」
「巻髪さんですかぁ、巻く髪と書いて巻髪って? ははぁ、その割には毛量が足りてないみたいですなぁ、はっはっは」
近藤はかなり陽気な人物のようだが、異常な程滑舌が悪く、実際に私が聞いたさっきの言葉はこんな感じだ。
「まひゃひゃみしゃんてすかぁ、まくかみとかいてまひゃひゃみて? ははぁ、そのわりにゃみゃうりゃうがたりゃてないみたいでしゃなぁ、はっはっは」
必死にリスニングを試みたところ、どうやら近藤は死ぬ時に入れ歯を入れ忘れたまま死んでしまったようだ。そのため、死後の世界でも口の中に入れ歯がなく、うまく喋ることができないのだという。口の中を見せてもらうと、本当に歯が一本もなかった。歯磨きを二週間に一回しかしなかったらこうなったらしい。
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