第31話 偉人巻髪五郎

 静まり返るクラスの中で、私は一人教壇の前に立っていた。体育祭の練習の前に、少しだけ偉人発表の時間を取ってもらったのだ(取ってもらったというより取られたといった方が適切だが)。

「それじゃ、始めて下さい」

 と枝木先生。

「わかりました。体育祭練習の時間を割いてすいません。……私が選んだ偉人は、私の祖父、巻髪五郎です」

 クラス中がどよめいた。

 自分の祖父を偉人として発表するなんて、本当に祖父が偉人だとしても勇気がいる。自画自賛に近いのだ。いやいや、それは祖父が仮に偉人だったらの話だ。巻髪五郎なんて聞いたことがない。十中八九ただの一般人だ。

「先生、これありなんですか!」

「調べるのが面倒くさいからおじいちゃんにしたんじゃないのぉ?」

 騒ぎ立てる生徒たちをクラス一の人気者、塩田勇斗が落ち着かせた。

「落ち着けぇ、皆。聞こうじゃないか。聞いて判断しようじゃないか。こいつの祖父が偉人が凡人か」

「そ、そうだな」

「塩田がそういうなら」

 平静を取り戻しつつあるクラスの光景を見ながら私は苦笑した。当然の反応だ。

 依然としてクラスには囁き声が広がっていたが、開口してすぐの私の言葉で水を打ったように静まり返った。

「私の祖父は、一週間前に死にました」

 死という言葉の持つ魔力にクラス全体が縛られた。気まずさが足元から頭までを蛇のように這いずり、あるいは水のように教室を満たした。

「別に気にしないでください。誰でもいつか死にます。祖父の場合それが一週間前だっただけです」

 生徒たちは不自然に身じろぎをした。心境はともかく、話は聞いてくれそうだ。

「私の祖父は愛知県名古屋市に生まれました。とりわけ裕福でも貧乏でもなく、いわゆる普通の家族として、祖父はつつましく暮らしていました。しかし、十二歳の時。名古屋への空襲が始まったそうです。何回目かの空襲かは本人も覚えていないそうですが、何回もあった空襲のどれかで、母、弟、妹、親戚、皆死んでしまったそうです」

 真央と五郎は何もない空間で互いが心ゆくまで語り合った。七十年以上年齢の差がある会話は、一言一言の単語でいちいちクエスチョンマークが浮き出て、それを解消するだけでえらく時間がかかった。まるで英語の本を読んでいるかのようにつまずくのだ。

 五郎は言った。

「後に父も戦地で死んだと知らされた。私がどうして生き残れたか、それはわからないなぁ。死んでもおかしくなった。死んでもよかったと思ったよ。それは家族と一緒にいたかったというのもあるし、それからの生活がとても苦しかったからというのもある」

 私は祖父母の家を隅々まで夜な夜な荒らし、残っていたおじいちゃんの若い頃の写真を引っ張り出してきて印刷していた。それを黒板にありったけ貼る。中々珍しいもののようで、枝木先生が一番食い入るように見ていた。

「祖父は空襲から生き残ったわけですが、戦争が終わり荒廃した町を子ども一人で過ごすのは簡単ではありません。本当に私たちが資料集で見るような靴磨きだったり、日雇いだったり、すりだったり、懇願だったり、そんなことを毎日必死にやっていたそうです。もちろん、生きるために致し方なく。私たちにはわかりません」

「わかる必要なんてない。こんな思いがわかるのは、私たちだけで十分だ」

「そうやって生きていき五年後、ラーメン屋の見習いとして働くことができます」

「一年で辞めさせられた。私は手際が悪くてね。もう一人優秀な子が入ってきて、私は用済みさ」

「なので次は、大工の見習いになります」

「それは半年で辞めたね。先輩にいじめられて、三階くらいの建物から落ちたんだよ(落とされたとも言うね)。右手と右足を骨折。それだけで済んでよかったが、そんな状態で大工はできん」

「全治六か月。最悪です。祖父は入院を余儀なくされます。ですが、そこで看病してくれたのが後の妻、哀子さんだったんです」

「おお!」

 クラスの皆は手を叩いて喜んだ。五郎の厳しい人生に一縷の希望が芽生えたことで、思わず反応してしまったのだ。

 五郎は鼻から果てしなく長いため息を吐いた。

「……めちゃくちゃ、それはもう、最高に、美人だった」

 塩田か誰かが冷やかしの口笛を吹いた。

「もちろん私は哀子に絶えず接近を試みた」

「が、もちろん断られます。なにせ彼は無一文。親の後ろ盾は一切なし、病院で治療を受けられているのだって、大工仲間から借金をしていたからです。対して祖母は一生懸命に看護師としての仕事をこなし、父は高校教師でそれなりに裕福な家庭を築き上げていました。……これ、無理ですよね。高嶺の花が過ぎます」

「そんなことない!」

「負けるな五郎さん!」

 最早クラスが一体となっておじいちゃんの恋愛を応援していた。

「色々やったなぁ。診察に乗じて手を触ろうとしたり、わざとベットから落ちて哀子を呼んだのも一度や二度じゃない。だが、哀子ともう一人担当の看護師がいてな、そいつは嫌いだった。そいつも私を嫌っていた。哀子を呼ぶためにベットから落ちたのに、やってきたのがあいつだった時の絶望ときたら。しかもあいつは転がる私を見て半笑いを浮かべてそのまま帰っていくんだ。あぁ、何十年たっても色あせることのない嫌悪を感じる」

「結局幾度となる求愛も虚しく、祖父は退院してしまいます」

「そんな!」

「五郎さんは失恋したのね」

「まさか。失恋したならどうして私がここに存在するんですか」

「あっ、そうか」

 今話題にされているのが私の祖父であることをすっかり忘れていた一同。

「けれど、祖母の方も気はあったんです」

「お」

「だから、退院の日、祖父に対してこう言いました。もう一度会いたい、と」

「その言葉の持つロマンチックな意味と現実的な意味両方に私の心は痺れた。待っていてくれる、だが今の財力では相手にできない。そういうことだ。私は必死に仕事を探すことにした――借金も残ってたし」

「祖父は運よく地元の運送業社に清掃員として雇われ、そこで読み書きや社会のいろはを学び、社員として迎えられることになるんです」

「それで、それで?」

 さつきが先を促した。

「……祖母はずっと待っていてくれました。当然その美貌ですから引く手は数多でしたが、祖母はずっと祖父を信じて待っていたんです。二人は……結婚します」

「やったぁ!」

 教室が歓喜と安堵の拍手で覆われ、その大きさは今までの偉人発表の中で一番だった。

「そして私の母が生まれ、私が生まれます」

 私はやけに物寂しい表情で言葉を切った。クラスはまた静まる。

「祖父の青年期の人生は波乱万丈で、また、祖母に一途で素敵な人柄だと思います。ただ、孫である私は、そんな印象を祖父に持ったことはありませんでした。確かに私には優しくしてくれたけれど、破天荒さも面白さもなく、悪い言葉を使えば、優しいだけだったんです」

「……私は娘ができた時に一つ心に誓ったことがある。それは、子どもたちには私みたいに不自由な暮らしを絶対にさせたくない、ということ。子ども時代は楽しくてなんぼ。学校にいって、友達と笑い合って喧嘩して、勉強もして部活もして、恋愛なんかもしたりして。その当り前を、私は娘にも、そして真央にも与えてやりたかった。だが私は十二歳で家族を失ったせいもあってか、どうやって父や祖父としての愛情を注いでやればいいのかがわからなかった。不自由な暮らしをして欲しくない、楽しい人生を送ってほしい、その思いだけが先行し、お金に走ってしまった。お金に満たされればそれで子どもたちは幸福だと思ってしまったんだ。お金よりも何よりも、子どもにとって楽しさの始まりは、家族であるというのに。

 ……真央、すまない。真央が私に何の印象も持っていないことは不思議ではない。私は親が死んだことを言い訳に使って、真央を知ろうとしなかったんだよ。孫ができるなんて思わなかった。真央が生まれた時、嬉しくて嬉しくて私は飛び跳ねたよ。真央のことは心の底からずっと大切だと思っている。伝え方が下手くそだったんだ」

「偉人って何なんでしょうかね。この授業が始まってからずっと考えていました。大きな戦争に勝ったから偉人なんでしょうか、世界で初めて何かを生み出したから偉人なんでしょうか。偉人だから偉いってことはないと思います。私は、自分の祖父を知って尊敬しましたし、偉人だと思いました。そうは思いませんか? だって空襲にあって、家族を失って、仕事も挫折して、恋愛も挫折して、それでも立ち上がって生きている。私を大切に思ってくれている。それだけで十分、少なくても私にとっては立派な偉人なんです。皆さんの家族もきっと、知られざる物語を持っています。皆偉人です。知ってあげてください。話をしてみてください。もったいないです。教科書に載っている人たちに引けを取らない大偉人たちが家族の中にいるのに、そして私たちに愛情を届けてくれているというに、知らないなんて」

「私は後悔しています。生きている間に祖父や祖母ともっと語らなかったことを」

 ひとたびの静寂があった後、クラスからは大きな温かい拍手が私に向けて送られた。先生も涙を拭いながら拍手をし、西町ですらも控えめに両手をペチペチと合わせていた。

 

 が、私は自分の席に戻らなかった。もう十分拍手はしただろうと誰もが思っても、私は教壇から微動だにして動かなかった。

「な、なんだよ」

 と永田。

「早く体育祭の練習しようぜ」

 私はきまり悪そうに舌で唇を舐めた。

「少し感動的な発表をした後で悪いんですけど、というか、それを利用するような形で申し訳ないんですけど……」

 全員が一斉に首を傾げた。

「私この前、死んだ祖父と会ったんですよね」

「⁉」

 クラス中の人々が椅子から転げ落ちそうになった。まるで死人が生き返ったのを見るように私のことを騒然として見つめる。感情の振れ幅があまりにも大きすぎて若干皆疲れているくらいだ。涙を誘発するような話から一転、オカルトじみたおとぎ話へと題材が変わった。

 罵る気力すらなくなった一同を塩田が元気づける。

「ま、まぁまぁ、聞いてみようじゃぁないか。ほら、せっかく教壇の上に立っているんだし?」

 感動的な話を材料に本題への協力を呼び掛けるのは、悲劇を語って人の同情を買い金をたかるのに似ている気がして罪悪感があったが、そんなことに後ろめたさを感じている時間はない。

 今は心の底からおじいちゃんの為に動こうと思えている。

 そんな自分が誇らしかった。

「一旦、私の話を信じて聞いてください。実はですね、祖父が死んだその日の夕方――」





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