第32話 開戦

 ナポレオン三世及び、彼の軍勢がかの忌々しき万里の長城の前に集結していた。改めて見ると万里の長城の威圧は並大抵のものではなかった。あらゆるものを拒絶する冷たさとあらゆるものを見惚れされる気高さを持っている。殴ってあの壁を破壊しようとしていた自分が数十日前にいたと考えると、恥ずかしさを感じざるを得なかった。

 集結した軍勢は約十万。エリアAから逃げてきてナポレオンの圧政を打破しようと志す住民、生前ナポレオンに侵略されて恨みを持つドイツ人やスペイン人やその他もろもろ、そして私との情報交換で仲間になった人々、この三者で主に軍は構成されている。参戦した理由は千差万別ではあるものの、それなりに軍としての団結力と士気は感じられた。それは、ナポレオン三世は言うまでもなく、トゥサン・ルベルチュール、ジョゼフィーヌ、バイバルス、軍の指揮を執る者たちの覚悟がダイヤモンドの如く強靭だからに他ならない。

 一人一人から噴き出た張り詰めた壮大な雰囲気が、背の高い万里の長城によってどこかに漂っていくことを妨げられ、蒸し暑さに似た緊張が人々の体に取り巻いていた。

 ナポレオン三世は早速怒っていた。本来ならば、敵に宣戦布告を受けていたら、敵が集結したところに自らも軍を配置するはずだ。しかしながら、万里の長城の外側にはナポレオンの兵士は一人もいない。

「顔を見せろ! ナポレオン・ボナパルト!」

 ナポレオン三世が尊厳高く叫んだ。

「そこにいるのはわかっている!」

 まるで立てこもりの犯人を追い詰めているような口調だ。

 ここにいる人々の多くは、教科書を始めとするありとあらゆる媒体でナポレオン知り、その名前が持つ力はわかっていたが、本物を見たことはなかった。本物はどんな顔をしているのか。絵画で見るような勇ましさを本当に持っているのか。噂は偽りで、実際は肥えた肉体をだらしなくぶら下げる、よくいる政治家のような臆病男ではないのだろうか。

 言うなれば、見たことがない人にとってナポレオンはもはや映画スターに似た存在で、その姿を見ること自体に価値があるように思われた。今から有名なナポレオンと一戦交えると考えると、現実離れした夢にいる気分になったりもする。

 ナポレオンを知っている者たちは戦々恐々と身構え、知らない者たちは恐怖半分興奮半分といった内訳だ。

 しかし、登場を待ち望む空気に反して、ナポレオンが全然登壇してこない。

「おい、私を恐れているのか、ボナパルト!」

 全員が懐疑的な目線を次々にナポレオン三世に向けた。「シカトされてるなこれ」近藤が私の隣で小さく、だが三世にはっきりと聞こえる声量で呟いた。

「ええい!」

 焦って怒った三世は、近くにいたアナウンサー斎藤が持っていた大切な商売道具のマイクをひったくり、声を拡張して再び叫んだ。

「おい、ナポレオン・ボナパルト! 知名度だけの弱虫小僧が、私が恐ろしくて顔を見せることも体が震えてできんのか。ならば私の不戦勝ということになるではないか。それでもいいが、それではつまらんなぁ。さっさと出てこい! 正々堂々真正面から貴様を打ち破って、私こそが大ナポレオンであることを証明す――」

「話が長い」

 強烈な爆風を伴って、冷徹な言葉が三世の発言を遮断した。万里の長城の奥から聞こえてきたにも関わらず、その声はクリアで淀みなくはっきりと人々の耳に飛び込んできた。たった一言で、ナポレオン三世の兵士たちは心を掴まれた。皇帝たる威厳と恐怖の全てが一言に含有されていたのだ。

 やがて、万里の長城の上に、万里の長城を飼いならした歴史の英雄の姿が出現した。

 若い男だった。知名度のある者はその姿すら自由に変えられる。私や三世はてっきり栄光の頂点にあった第一帝政時代の三十歳から四十歳の姿を彼は選んでいると思い込んでいたが、目の前にいるのは青年とも呼べてしまいそうなみずみずしく若い美しき男。しかし、ライオンの鬣のような荒々しい王者のような茶髪を風になびかせ、獲物を狙う鷲のように鋭い瞳で私たちを見下ろす態度はとても若輩者のそれではなく、少しでも気を緩めればひれ伏してしまいそうな強烈なオーラが発せられていた。

 ナポレオン三世は思わず生唾を飲んだ。

「そして、声が小さい」

 その場にいた全員がはっとした。ボナパルトの手にはマイクも拡声器も見当たらない。己の声一つで広大な戦場全土に英雄ナポレオンを轟かせているのだ。

 三世は苛立ちマイクを投げ捨て(一瞬アナウンサー斎藤が敵側に寝返ったような顔をした)、負けじと声を張り上げた。

「やっと姿を見せてくださいましたな、叔父様」

「フン、相変わらず敗北者の顔をしているな、出来損ないの甥よ」

 冷静なトーンで話しているのに、どうしてその声はここまで威圧的に耳に刺さり込んでくるのか。耳から入り込んだ声は脳内で爆発し、自らの思考など消えてなくなる。彼の一言一句が洗脳の力を持っていた。必死に声を絞り出す三世が滑稽になってくる。

 だが、冷や汗をかきながらも、ナポレオン三世は挑戦的な態度を崩さなかった。此度の戦に対する覚悟は並大抵のものではないのだ。

「いつまでその調子でいられるかが楽しみだ。今にその長髪を我が剣で刈り取ってやろうぞ!」

「私に勝てると?」

「もちろんだ。私は二度と貴様には負けん」

 ナポレオンは鼻で笑った。

「私もそろそろお前と遊ぶのも飽きてきた。ここらで決着をつけるのもいいだろう。よし、今が最後だ。今なら、私は貴様らの降伏を認めよう。どこへ逃げても構わないし、ここに残っても丁寧に一国民として扱ってやろう。ただし、お前が突撃の命令を下したら最後、私は貴様らを打ち砕き、隅の隅まで痛めつける。簡単に死ねると思うな、我が宮殿には地下牢がいくつもある。そこで永遠という時間を苦痛と屈辱と共に過ごしてもらう。さぁ、ナポレオン三世、私の血を薄めた劣等種よ、どうする?」

 ナポレオン三世は激怒に激怒を重ねて血管という血管から血が噴き出す勢いだった。

「何がどうするだ! 私はここに戦いにきた。お前を打ち負かし、真のナポレオンは誰かを思い知らせにきたのだ。そんな脅しに誰が屈するものか」

 背後で太鼓の低音が鳴り始めた。その一叩きごとに大地が激しく揺れ、同時に自分たちの心がざわめき立つのを感じた。一種の魔法のようなものだった。この数日間この太鼓の音がパリ中に響いており、いつの間にか耳に残っていたのだ。例えて言うなら、知らない言語が飛び交う外国の中で日本語を聞いた時のような安心感。それがこの太鼓には含まれていた。

「突撃準備じゃ!」

「戦闘準備!」

 各部隊の隊長たちが声を張り上げ、兵士たちが武器を取る。一時はナポレオンに惑わされた心も、太鼓の音と隊長たちの声でまた元の位置に戻った。

 近藤は支給されたおっかない武器を、私は高圧洗浄機を持った。血が沸き立つ。鳥肌が全身を駆け巡る。

 哀子に会いにいく。そのためにナポレオンを倒さなければならない。

「おい!」

 と近藤。

「お前の知名度、まだ上がってないよな」

「あぁ、でも大丈夫だ」

 そして真央。一緒に戦ってくれる孫のためにも、この戦は勝たねばならない。

「真央はきっとやってくれる」

 士気が最高潮にまで盛り上がった。限界の限界まで溜まったエネルギーが放出の時を渇望している。

「突撃ぃ!」

 ナポレオン三世のありったけの怒声が戦の始まりを伝えた。人々は雄叫びを上げ、堅固を極めた万里の長城に頭突きをする。


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