第22話 旅へ

 さつきは私の制止に聞く耳を持たず、悪女メッサリーナを偉人発表の題材に選んでしまった。それどころか、メッサリーナでは飽き足りず、カトリーヌ・ド・メディシス、妲己、西太后、クレオパトラまでぶち込んで悪女オールスターの破天荒な発表を作り上げた。それを発表の一人目でやるものだから、クラスは大いにどよめいた。自分が調べて作り上げた原稿が急に大したことのないものに思えてしまうのだろう。実際には偉人を詰め込み過ぎて、人物のごく表層しか紹介できていない拙い発表であるのだが、インパクト一本で押し通した。さつきの異端児ぶりが垣間見えた発表だった。次の稲垣というガタイのいい人物はせっかくポカホンタスについての興味深い内容の原稿を作ったのに、すっかり萎縮してしまって、二十メートル先にいる人のイヤホンから聞こえる音楽くらいの微かな声量しか出せず、酷い発表になってしまった。

 その後ダラダラとありきたりな発表が続いて、塩田の番がやってきた。やはり彼は外の世界の流れなど全く気にしない滑らかな性質を持っていた。自信過剰というわけではない。自然を保ったまま、それでいて力強い。

 選んだ人物はナポレオン・ボナパルト。王道を立派に攻めた。

 コルシカ島で生まれ、なまりを馬鹿にされた少年時代から始まり、イタリア遠征、エジプト遠征で実力を世に知らしめていった青年時代。クーデターを起こして政府を倒し、国民投票で皇帝となった帝政時代。トラファルガーの海戦、アウステルリッツの三帝会戦、ロシア遠征の失敗、そしてライプツィヒの戦いを経て失墜し、エルバ島へと流された晩年。パリへ帰還して再び国のトップに返り咲いたが、ワーテルローの戦いで敗北し、セントヘレナ島へ流されて生涯を終えたところまで。

 塩田は要領よくかいつまみながらナポレオンの一生を辿った。誰もが知っている人物でありながら、塩田にしかできない輝かしい発表だった。枝木先生もこれが見たかったんだよと大喜びのご様子だ。

 発表を終えて席に戻ってきた塩田に私は舌打ちをした。

「何だよ」

「別に」

 ものの数日で随分と塩田と仲良くなったものだ。「何だよ」「おい何だよ」「何で舌打ちしたんだよ」塩田を無視し、遠い目をしながら私は思う。きっと塩田の対応はほんの少ししか変わっていないのだ。むしろ変わったのは自分の方。思えば、他人の前で家族について話したことなんて初めてだ。さつきにならまだしも、不可抗力とはいえこの男にまで話してしまうとは。腹が立つような、しかし僅かな温かみがあるような、大事に大事に築き上げて磨いた胸中の万里の長城があっけなく崩れていく感じ。

「なぁ、なぁ、なぁ、何で俺の発表を聞いて舌打ちしたんだよぉ」

 授業が終わってからもしつこくねちねちと塩田は私の周りをウロチョロした。しまいには私に触れてしまいそうな距離にまで近づいてきた。

「近い!」

 このままだと、彼の彼女に妬まれてしまうレベルだ。噂によると彼女さんはそれはプライドが高いらしい。裏工作もお手の物だそうだ。目を点けられたら一瞬で社会的に潰される。

 塩田と中途半端に会話を続けていると、さつきがタイミングよく乱入してきた。

「しっしっ、ナポレオンかぶれはあっちにいきな」

「うぉ、辛辣な言葉、さすが悪女!」

 この二人は随分と仲が悪くなった。開口一番言い合いになっている。

「ねぇねぇ、真央は私の発表よかったと思うよね」

「うん、まぁ」

「この男より?」

「うぅん……」

「ほら、巻髪困ってるぞ。何故なら、本心では俺の発表の方がよかったと思っているからな」

「そんな!」

 私は苦笑した。

「まぁ……」

「はぁ?」

 さつきは憤慨して、いつものように塩田にぶつけていた怒りを全て私の方に向けてきた。

「どうしてまだ誰を発表の題材にするか決めてない奴に、まぁ……、なんて言われなきゃならないのよ。私は名字の定めで一番手というプレッシャーにさらされたのにも関わらず、それに負けず最高の偉人たちを伝えたのに! 真央は全然わかってない」

「ごめん、ごめんってばさつき」

 さつきは腕を組んで頬を膨らました。私はなんとか誉め言葉を探す。

「……た、確かに、皆の度肝を抜いた発表だった」

 単純なさつきは我ながら酷い賛辞にも素直に喜んだ。

「でしょ!」

「うん、特に枝木先生の度肝は完全に抜ききってたな」

 自分の意図を冒頭からぶち壊された、さつき発表時の枝木先生の顔は忘れられない。

「えへへ、やっぱりよかったよね、私の発表」  

 自分の頭を撫でながら自分に陶酔するさつきの背後で、塩田と私は呆れながら目を合わせた。

「それにしても、まだどの偉人を発表するか決めてないって本当なのか」

「うん」

「すみませんね。ナポレオンとっちゃって」

「別にいいって。元々候補にもなかったんだから」

「あ、一応候補はあるのね。候補は誰なのよ」

「ん? ナポレオン以外」

 二人は深すぎるため息をついた。それにつられて私の気分も落ち込む。

「おかしいなぁ、真央結構世界史好きな印象あるんだけど……」

 そう、世界史は好きだ。だけど今は、死んだ人について学ぶということが無意味に思えて仕方がない。ナポレオンもメッサリーナもただの他人。有名だから名前は知っているけれど、あっち側は私のことなんて知らないし、知る気もない。言わせてもらえば私だってあんたたちが何をしてきたかなんて知りたくない。

 世界史の名だたる人を知るよりもまず先にやることがある。そんな気がするのだけど、そうしなければならない気がするのだけど、そうしたいという気すらするのだけど、軽すぎる言葉で片づけてしまえば、面倒くさい。もしそれを行えば、きっと今よりも余計な感情が脳に溢れかえる。それが怖い。

 涙が流れてしまいそう。

「ねぇ、あんたのこと話しているのよ、ちゃんと聞いて!」

 さつきが私のほっぺを優しくつねった。

「うぅ、痛い痛い」

「エドガー・アラン・ポーなんてどうよ。巻髪ってなんかポーの小説みたいな雰囲気あるしさ」

「塩田は黙ってなさい。私はマタ・ハリなんかいいと思うの。ほら美しいスパイってかっこいいじゃない? 私の発表に入れようとしたんだけど……」

「ちょっと待って!」

 私は自分でもびっくりするくらい大きな声を出していた。

「うわ!」

「びっくりした!」

 驚く二人の姿がぼやけ、頭がクラクラとしてきた。

 おじいちゃんに呼ばれている。

 襲ってくる眠気。阿片を吸ってはいないはずだが、今から神の啓示を聞きにいけると予感させるような、未知なる眠気だ。瞳を閉じればそこにいけるのだと直感が告げる。悪い気分ではなかった。むしろずっと待っていて、待ちくたびれたと感じたくらいだ。

気分はさながら預言者ヨハネ。

「私、寝るわ」

「は?」

 二人が聞き返している内に、私は机に突っ伏して目をつぶっていた。


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