第51話 愚かな矮小生物 人間

 閉会式が終わる頃にはアドレナリンが切れてきて、全員が下を向いて廃人のように歩くことしかできなかった(枝木先生だけは何故かまだ元気で、落ち込む周りの先生らを嘲りまくった。翌年先生は隣の中学へと飛ばされた。これが理由だと噂されている)。しかし全てを出し切った後の眠気や倦怠感はどこか気分を優しく撫でる部分もあり、学校中が温かい疲労に包まれ、青春の時間がのんびりと流れていた。

 校庭に持ち出してきた椅子を教室に戻すという恐ろしく面倒くさい作業をしなくてはならなかった。生徒たちは雑談をしながらダラダラとそれをこなす。聞こえてくる生徒たちの会話の半分は年齢に似合わず体の痛みを訴えたものだ。

 普段運動をしない上、心もずっと張り詰めていた私は人一倍疲れており、クラスの最後尾を一人でとぼとぼと歩いていた。いい疲労感であることは間違いない。安堵感が疲労に混ざって体中に溶け込んでいる。前の方で稲垣が担いでいるクラス旗には、巻髪五郎の名が煌めいていた。

 おじいちゃん、私やったよ。

 直感でしかなかったが、おじいちゃんはうまくやれた気がしたし、例えおじいちゃんが敗北したとしても、私にはこれ以上のことは絶対にできない。そのくらい出し切った感覚があった。

 急に体が軽くなり、不思議に思って顔を上げると、隣には塩田がいて、私の椅子を持ってくれていた。

 恥ずかしさを紛らわす憎まれ口すらも叩く気力がなかった。

「ありがと」

 私が素直にそう言うと、塩田が満足げに笑った。

「いいよ」

「ねぇ塩田」

「ん?」

「どうして皆はおじいちゃんのことを信じてくれたんだろう」

 その時は夢中になって動き続けていたが、いざ終わってみると、これまでの出来事全てが夢だったのではないかと思えてくる。クラスがあれ程までに一致団結することなど、いくら体育祭とはいえ奇跡ではないだろうか。

 塩田は軽い口調のまま言った。

「そんなもん、ノリじゃないの?」

「ノリ?」

 私はたまげた。

「そうだよ。ただのノリさ。それ以外何がある」

 少し悲しい気持ちになった。あれほどの団結を感じながら、どうせ原動力はそんなものなのだ。

「それの何が悪いんだよ」

 と私の顔をまじまじと見ながら言う塩田。私が顔をしかめて威嚇すると、塩田は笑いながらのけぞった。

「でも、響いたんだろう。巻髪のおじいちゃんに対する思いと後悔が、生々しくね。その心の揺らぎが、ノリという軽い行動に繋がったのかも」

「……今更つけ足しても無駄よ」

 私は椅子を奪い返そうとしたが、塩田はひょいと椅子を高く持ち上げてそれを阻止した。失敗した私の手は空を切った。

「塩田もそうなの? 塩田も、ノリで私に声をかけてくれたり、助けたりしてくれたの?」

「最初はね。隣の席になった人って、なんだか絡みたくなるんだよ」

「ダルイ性格」

「でもその後は違うよ」

「え?」

「俺は……そうは見えないのかもしれないけれど、死がとても怖いんだ」

「……!」

「もちろん自分の死も怖いけれど、今はそれより、一緒に住んでる家族が、このままいけば俺より先に死んでしまうって考えるだけで、とても怖いんだ。だから、巻髪のおじいちゃんが亡くなったと聞いて、俺が恐れるまさにその最中にいる巻髪に俺は同情した」

「同情ね……」

「だがその心境もまた変わった。なんてったって、巻髪は何故かおじいちゃんの死を悲しんでいないように見えるし、挙句の果てには死んだおじいちゃんと話したとか言い出すし。完全にヤバい奴と出会ったと思った」

「ちょっと、やめてよ」

 真央は笑いながら塩田を叩いた。

「で、まぁ、色々あって。やっぱり俺の中で死は悲しくて怖いものに違いないと思った。でも巻髪とおじいちゃんとの関係性を見て、死はそれだけじゃないと思ったよ。怖い悲しい以前に、死という終わりがあるからこそ、人は人なんだなって。どのみち俺たちに与えられているのは、今だけだ」

「……そうだね」

 私は塩田の顔を見上げた。塩田はいつも通りのお気楽な顔だ。

 見つめられているに気づき、塩田は私を見え返した。私はすぐに体を震わせて視線を逸らした。

 もしかしたら……。

 塩田は前の方にいた友達に呼ばれ、私の椅子を持ったまま、止める間もなくそっちにいってしまった。

 手持ち無沙汰になった私は、ぼんやりとその背中を見つめていた。

「あぁ、塩田君が彼女持ちじゃなかったらよかったのに」

 背後で気持ち悪い声が聞こえた。

「うるせぇ」

 さつきだ。

「やめとき、やめとき、あんな男なんて。顔だけは認めざるを得ないけど、あとは空気読めない能天気野郎だから。……だけど私は真央の親友よ。親友の恋愛を止めるようなことはしない。本気なら私に言いなさい。あいつと彼女を別れさしてやるから」

「ちょっと、勝手に話進めないでよ。私はなんとも思ってないから」

「へぇへぇ、そうですか」

 さつきは呆れてため息をついた。

「少し素直になったと思えばこれですよ」

「だから違うって」

 私は無意識のうちに、また塩田の背中を目で追っていた。


 巻髪五郎の名は忘れられた。

 月曜日になると、また日常の学校生活が始まった。二年A組が優勝したという事実は破壊的な影響力を持っていたが、五郎という名は刻刻と消えていくのだった。恐らく、一年も経ってしまえば、同じクラスの人たちも大半はその名前を忘れてしまうだろう。そんなものだ。授業開始のベルはそっけなく、肩を組んで応援したクラスメートとは、また目も合わせない関係に戻った。

 だが、何も変わっていない、は言い過ぎだろう。私は少し明るい性格になったかもしれない。西町は放課後にランニングを始めたらしい。永田は百メートル競走の敗北が悔しくて朝練に一番に乗り込むようになったと聞くし、さつきは必死になって私の恋(独断)を実らせようとしている。塩田は変わらずの奔放ぶりだが……。

 淡々とした日常が戻ってきた。だが、彼らの胸の中には、新しい財産が積もっていた。手に取れないし目にも見えない財産は、何よりも神々しく輝いていた。



 



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