第8話 死んでから死ぬ
激しい苦痛。
肌をナイフで切り刻まれるような痛み。包丁で指を数ミリ切ってしまったような生易しい痛みではない。包丁をしっかりと肌の上で擦り、正確に血管を断ち切られているような痛みだ。
強烈な頭痛。
頭の中で銅鑼が何度も鳴り響き、内部から鼓膜や脳の繊維を一本残らず破裂させてくる。
骨を折られるような痛み。背後から腕を掴まれ、本来は曲がらない方向に無理やり腕を引っ張られる。ゴギャ。
手の指を手の甲の側に一本ずつ折りたたまれる。パキャッ。
痛みの海の中で、私は悔しくて叫んだ。最も、叫ぼうとして開けた口からは強引に歯が抜き取られ、ベロがカッターナイフで切り取られるのだが。
声にならない声が空気を震わせ、無情にもそのまま自分に返ってくる。
心臓がチクチクと痛む。しかしこれは外的な痛みではなく、心の中にある記憶が棘を生やしてねちっこくつつくのだ。
視界には様々な哀子が映っては消えていく。笑顔を降り注いでくれたと思ったら消え、隣を歩いているような横顔が見られたと思ったらそのこめかみに弾丸が通過して消えた。
一番辛かったのは、哀子が満面の笑みで、しかしそれは他人に向けられるような無機的なもので、私に向かって手を振る様子だった。すぐには消えてくれず、私に背を向けてゆっくりと歩いて消えていく。
どれだけ体を切り裂かれねじり絞られえぐりそぎ落とされても、いつまで経っても死ねる気がしなかった。当然だ。もう死んでいるのだから。
死をこれほどまでに望んだことはない。この苦しみは確実に一度体験した死よりも長く恐ろしかった。
平衡感覚が消え、真っ暗な闇を立ったり座ったり回ったりした。全身の痛みが全て消え、全裸になった体を冷たい黒が覆いつくす。痛みがなくなると、痛みが無性に恋しくなった。爪で皮膚をひっかき、裂かれた皮膚からは血が滲んだ。そのほのかな痛みが快感に変わり、より強烈な痛みを欲すると、気がつけば手には鋭利な包丁が握られていた。これで好きな場所を突き刺せるし、切り刻める。切れ味はいい。刃こぼれもしない。早速首を掻き切った途端に、激しい苦痛とほとばしる熱が頭に流れ込み、ありえない程の後悔が飛び出る血液の勢いより遥かに凄まじく数多の感情を押し流す。
知名度が全て。酷く極端な世界だ。現世ではたった一人でも充実して生活している人がいる。彼らの生活はきっと嫌々人付き合いをしている人の生活よりも楽しくて誇らしいものに違いない。大多数の人に知られることが幸せでは決してないと言い切れる。だが、死後の世界で幸せを手に入れるには、知名度だけが重要なのだ。
知名度がある人が善い人であるわけでもない。むしろ、真逆のイメージすらある。人道よりも富と名声に固執し、偏った信念のために周りを気にせずひた走る。
知名度が欲しい。
私は切実にそう思った。そう思った瞬間に自分の中のプライドというか、大切にしていたものが壊れる音を聞いた。罪悪感に似た苦味がはらわたに染み込み、俗物になっていくような気がした。
それでも哀子に会いたいと思ったのだ。
もう遅すぎる。冷静な自分はそう言う。既に死んでいるのに、どうやって現世で知名度を手に入れるのか。
自分の名前を覚えてくれている人は数人しかいない。娘、娘の夫、孫。他の人は存在こそ知ってくれていても、巻髪五郎という名前までは知らないだろう。
最低限、真央が生きている間はこちらでも生きていける。ふとその前提を思い起こした時、私の脳には現世での最後の記憶が鮮明に思い出された。
視界には涙を浮かべる娘。お通夜や葬式のことを既に考えている娘の夫。そして、孫……。真央の姿はない。死を迎える瞬間に、彼女はそこにいなかったのだ。
忘れかけていた現実が非情に私を貫く。
同時に、近藤の淡々とした声も響いた。
「もう忘れているんじゃないのか。どうでもいいと思っているんじゃないのか」
もう忘れていくんじゃないのか。どうでもいいと思っていくんじゃないのか。
真央に存在を忘れられる。知名度云々の話以前に、それはあまりにも悲しすぎた。
違う、罪を真央に押しつけるな。全て自分の行いだ。
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