第45話 ナポレオン×ナポレオン
大軍のど真ん中を車で容赦なく突き進んでいった。アクセルを奥深くまでぎっちりと踏み込んで、邪魔する敵を四方に弾き飛ばす(あるいは轢き倒す)。それでもへばりついてくる敵は、ナポレオン三世が後部座席から身を乗り出して剣で刺し、ジョゼフィーヌが宝石がじゃらじゃらとついた拳で殴りつけて車から落とした。
「いけいけいけ!」
人を車ではねる嫌な振動も、怖いことに、慣れてくると虫がガラスに当たったくらいの動揺しかなくなる。五郎はアクセルを両足で押し込んでさらなる加速を中古のエブリイに強要した。
ナポレオン三世が望遠鏡で建物の上空を確認して叫んだ。
「ナポレオンの姿が消えたぞ! バレたのか」
「そんなことはどうでもいい。もう建物につく。決戦は建物の中だ」
軍隊の波を抜け、エブリイは喘息の如く荒い息をしながら和風の門をぶち壊して建物の中に入り込んだ。
車から降りたナポレオン三世が、すぐに重厚な扉を瞬時に何十も創り出し、追手を妨げた。素早く素晴らしい行動だったが、せいぜい稼げて五分というところだろう。
「上にいくぞ!」
なんとも腹が立つことに、この建物は上に上にと伸びてはいるものの、階段が一切なかった。階段も創れないような知名度の者は入る価値なしということをこれ見よがしに示しているのだ。
ナポレオン三世がすぐに黄金色の螺旋階段を創り出す。
「ふん、私の知名度を舐めるな!」
「何で螺旋階段にしたんだよ!」
普通の階段を使えば十数段で終わったのに、わざわざ螺旋にしたことでその倍の段数を駆け上ることになった。
それからも頑なに螺旋階段を創り続けたナポレオン三世を罵倒しながら、四人は上へと上がっていった。
すると、いた。
『ナポレオンの戴冠式』『サン・ベルナール峠を越えるナポレオン』から、『スフィンクスの前のナポレオン』さらに不思議なことに、『1808年5月3日』まで。名画が無数に飾られている部屋の中央にベットがあり、そこにナポレオンとメッサリーナが腰かけていたのだ。
鉢合わせた両者。さすがのナポレオンも驚きを隠せないようだった。三世が怒鳴ると、身をビクッと震わせたのだ。
近くで見るナポレオンは、意外にも人間らしかった。いや、一番人間らしかった。建物の頂上で下界を見下していた威圧的な雰囲気は鳴りを潜め、夜風に怯える赤ん坊のように繊細な恐怖に苛まれていた。私と近藤は互いに目配せをし合い、偽物なのではないかと訝しく思ったくらいだ。しかし、ジョゼフィーヌが前に出て静かに言った。
「彼が、彼こそが、ナポレオン・ボナパルトよ」
「あぁ、ジョゼフィーヌか」
ナポレオンは愛しさで溢れた声を出し、ジョゼフィーヌの方に手を伸ばした。
「どうして私の元から去ってしまったのだ」
「それはあなたが、私と出会った頃の顔をして、私を捨てた頃と同じことをやろうとしていたからよ」
ナポレオンの目が赤く光った。その瞬間に、凄まじい威圧が烈風の如く押し寄せ、私と近藤は尻もちをつき、ナポレオン三世も数歩後ろへ下がった。ジョゼフィーヌだけが一歩もその場を動かず、彼の瞳を哀れな瞳で見つめ返した。
「私には世界を手に入れる力がある。私は世界を欲しているし、何より世界が私を欲している。私はやらねばならんことをやっているのだ」
「それが間違いだったとあなたは知っているはず。それも一番よく」
「私はもう一度生を受けたのだ」
「いいえ死んだのよ!」
「小賢しい!」
ナポレオンはベットの柱を強く拳で打ちつけた。
「私を止める気か」
「そうしたいところだけれど、私が用があるのは隣の女。あなたを惑わす淫乱女よ」
長い爪を手入れしながら淫らで舐め腐った態度を崩さなかったメッサリーナは、ジョゼフィーヌの言葉で初めて目線を上げた。蛇の舌のように怪しく曲線を描く瞳に、凝固した血のような色合いをした唇を持つ鋭利な女性だ。触れるもの全てを自分のものにし、それから全てを傷つけて楽しんでいそうな、魅惑と苦痛の中に生きている印象がある。
メッサリーナは微笑を浮かべて甘えるような声でナポレオンにすりついた。
「あぁ、私恐ろしいですわ。あの女、凄く怖い目で私を見てくるの」
ナポレオンはため息をついた。
「気にしなくてもいい。彼女は優しい人だ。瞳は少し怖いがね。さて、ジョゼフィーヌは君に用があるみたいだから、私は立ち去ろう」
ナポレオンは隣の部屋に歩き始めた。
「私に用があるのは、惨めな甥と、老いぼれたアジア人が二人。人気者だな、私は」
ナポレオンの体は再び権威の鎧に包まれた。先ほど地上の戦闘で抱いた「負ける」という直感を私はまた感じた。
「俺は別に帰ってもいいっすけどね」
近藤は陽気な素振りでそう言ったが、ナポレオン三世は近藤の首根っこを掴んで離さなかった。三世が一番震えているのがなんとも情けない。
隣の部屋は、大きなベランダだった。壁はなく、戦場の風景が一望できる。地面は黒く凸凹していて、アッピア街道を思わせた。
私たちが外に出た時には、ナポレオンは既に馬に乗っており、その手には煌めく剣が握られていた。
「あぁ、マズイ!」
ナポレオンは三人の真ん中に馬で突撃を仕掛けると、左に飛び跳ねた私と近藤には目もくれず、右に飛び跳ねた三世に剣を容赦なく振り下ろした。三世は瞬時に盾を創り出して首が胴体から解放されるのを防いだが、反撃する程の余裕はなく、ナポレオンの二撃三撃をだらしなくその場に崩れ落ちながら盾で受けるしかなかった。見向きもされなかった私と近藤は憤慨し、家庭菜園用のくわで馬の足を折った。馬は崩れ、ナポレオンも落ちた。かと思いきや、その馬は消え、ナポレオンはさも最初からその馬に乗っていたかのように瞬時に出現させた二頭目の馬にまたがり、二人に向かって嘲笑を繰り出した。
「私が、ナポレオン・ボナパルトだ」
私と近藤は火薬の臭いに気がつき後ろを向いた。そこにはかつてナポレオンがパリで使った大砲が備え付けられており、二人が逃げなければと判断した時にはもう手遅れだった。その大きな黒い口が火の弾丸を吐き出した。
私は瞬時にエブリイの外装を十個くらい創って盾としたが、大砲の勢いは消せずに二人は吹き飛ばされ、三階分くらい下のベランダに落下した。落ちる前にマットレスを敷いたことで命は助かったが、時間にして一分にも満たない戦闘でこれほどの力の差を見せつけられたのはさすがに身に応えた。
建物のどこからか、神が息を吹いたかのような壮麗で厚みある曲が流れてきた。それは、ベートーヴェンの「英雄」……いや、今この時だけは「ボナパルト」と呼ばれる曲だ。
絵画の部屋では、メッサリーナとジョゼフィーヌが睨み合っていた。
隣のベランダから爆音が轟き、メッサリーナはわざとらしく身をすくめる。
「死んだかもね、あの三人」
ナポレオンがいなくなった途端これだ。声が低くなり、言葉遣いには上品さの欠片もなくなる。ジョゼフィーヌは吐き気を感じた。
「メッサリーナ。歴史上でも五本の指に入る悪女」
「あら、私のこと知っているの? 嬉しい」
「そんなあなたが、死んでからナポレオンに近づいた理由を教えなさい」
「簡単な質問ね、でも確かにあなたは不思議に思うかも。だって、彼に男としての魅力はないんだもの。なんてったって彼の――」
ジョゼフィーヌはメッサリーナの顔面を殴り飛ばしていた。
「やっぱり理由はどうでもいいわ。あなたを殴り殺せればそれでいい」
「このデブが!」
顔を歪めながらメッサリーナは怒鳴った。
甥と叔父、正真正銘の一騎打ち。常に叔父の栄光と自分を比べて焦り、落ち込み、怒ったナポレオン三世。死んでから名誉を保とうと再三勝負を挑むも、毎回その実力の差を突きつけられるだけで、永遠にも思える惨めさを感じていた。だが今回だけは違う。私という力強い味方が運命のように出現し、ついにナポレオンと一騎打ちという展開にまで持ち込めた。今までの鬱憤を全てここで晴らす覚悟であった。もちろん、全てを賭けて。
戦闘開始早々私と近藤が吹き飛ばされたのは予想外の出来事だったが、そのおかげでナポレオンの攻撃がやんだ。三世はその隙に態勢を立て直すと、彼もまた馬を出現させてそれに乗った。身長や外見はあまり優れているとは言えない三世だったが、その座高の高さが馬上では輝き、ナポレオンたる風貌を醸し出していた。
「ナポレオン・ボナパルト。私はお前に勝たねばならん。二十三地区のためにも、私の為にもな」
「お前は無口な男だと思っていたが、エリアBに落ちて随分と変わったな。より敗者らしくなった」
「黙れ!」
二人の剣と剣が重なり合い、火花が散った。
ジョゼフィーヌもメッサリーナも、ナポレオン三世もナポレオンも、あらゆるものを創り出せるだけの知名度を持っていた。しかし、彼らは剣で拳で戦うことを選んでいた。それはしょうもないプライドでしかない。だが一体誰がプライドとプライドのぶつかり合いを止めることができよう。それも、歴史に名を残した強者たちのプライドを。
「貴様は何故独裁国家をまた作る! 二度も失敗したというのに!」
「あれは失敗ではなかった。全ては死んでからこの新王国を創るための準備であった」
「だがその失敗から何も学んでいないではないか。また同じ、いやもっと酷い国を貴様は創った。知名度が高い者だけを優遇し、それ以外の者を見捨てる国だ! なんて愚かだ、なんて馬鹿馬鹿しい」
「この世界のシステムがそれを認めているのだ。ここにくる途中、私の国を見ただろう。選別された民だけで作られる国はなんと美しいことか! それに、私を侮蔑するお前だって同じだ。現世での過ちをいつまでも繰り返している。いつもいつまでも私を追いかけ、私の陰に怯え、そして私に勝てずに心を壊す!」
「いや、私は今日それを打ち砕くのだ」
「例えそうだとしてもだ。お前が作る国は私の国の模造品に過ぎん。明らかに劣化したコピーしかお前は作れないのだ!」
「なめるなよ。私は唯一無二のナポレオンだ!」
剣は何度も折れ、馬は何度も崩れ落ちた。だがその度に創り出し、再び剣と剣とを激しく打ち合う。
メッサリーナとジョゼフィーヌの争いは生々しさの頂点にあった。ベットの上で髪を引っ張り合い、ビンタをし、首を絞めつける。膝蹴り、グーパンチ、何でもありだ。
「捨てられた女が調子に乗るなよ」
メッサリーナがその細長い指で纏わりつくようにジョゼフィーヌの首を絞めた。ジョゼフィーヌは泡を噴き出し苦しみながらも、なんとか足で相手の首を絞めて態勢を逆転させた。
「捨てることしかできない女は黙ってなさい。私は彼のことを心の底から大事に思っている、例え彼に捨てられようとも」
ロマンに満ちた口調に対し、暴力は加速する。マシンガンを連射しているようにジョゼフィーヌの拳がメッサリーナの上半身を滅多打ちにした。
「教えてあげるわメッサリーナ。あなたがナポレオンに近づいたのは、ただ、寂しかったから。あなたは悪女。関わる人全てを嘲り裏切り見下して、誰にも本当の信頼を委ねることができなかった。そんな可愛らしい動機で、あなたはナポレオンに近づき、まんまと彼の魅力に浸かってしまった」
「違う!」
メッサリーナのカウンターが炸裂し、ジョゼフィーヌは仰向けに倒れた。メッサリーナは起き上がり息を整える。
「私があいつに近づいたのは、ただあいつが有名だったから。味わえるだけ味わって、吸えるだけ吸って、すぐに捨てるのを楽しみにしてただけなんだよ!」
「じゃあすぐに捨てなさいよ。十分に味わったでしょ? 早くどこかにいきなさいよ」
「いや、まだ……」
ジョゼフィーヌはボロボロの顔で笑った。
「ナポレオンは優しいでしょ? 彼は優しい。少しだけ自信過剰で、少しだけ戦が得意で、少しだけ流されやすい性格だけれど、本当は無口なかんしゃく持ちのどうしようもない子どもに過ぎないの。認めなさいよ、淫乱女。惚れたんでしょ?」
「ほざけ」
二人は正面から激しく生身で殴り合った。
一方、かなり下の階まで落とされた私と近藤はなんとかして上の階に上がろうとやっけになっていた。先述の通り、この建物には階段がない。ナポレオン三世が創った螺旋階段は既に消えていて、自分たちで何かを創るしかない。そこで私が創ったのは屋根の修理をしたり高い木の枝を切ったりする時に使う脚立だった。しかし、脚立では微妙に上の階に届かない。仕方なく、私が不安定な脚立の一番上に立って近藤を肩車し、二階に持ち上げるしかなかった。非常に時間がかかる。何せ、肩車など数十年ぶりだ。しかも時々私が創り出した脚立がボロボロと崩れ出してしまうこともあるのだ。
「知名度がぐらつく。真央の方も苦戦しているんだ」
頑張れ、真央。
私と近藤はようやく元の部屋まで戻ってきて、ベランダに飛び出した。
しかしその瞬間、ナポレオンの冷たい言葉。
「雑魚に用はない」
同時に、私たちの真横で先ほどと同じ大砲が三つ同時に火を噴いた。
「嘘だぁ!」
私と近藤はまたもや、さらに激しく下界へと落下させられてしまった。
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